上高今昔48(部活動8 文芸部)

2025年7月29日 15時14分
上高今昔

『二十年誌』に「文芸部」について創部時期の記述がある。

文芸班(俳句・詩・短歌)は、物資不足の終戦直後、紙不足・資金難で会誌発行の熱望が果たせないため、久万町のある商人の好意で商売を手伝い、得た報酬で会誌発行にこぎつけた。ところでこのクラブは校友会の進歩分子が多く集まっていたので、会誌で教員を批評するやら非難するやらした。これが学校に知れて一騒動もちあがり、学校もそれ程会誌が出したいのなら学校新聞をつくってその紙上にと、昭和22年12月の校友会総会の満場一致の承認を得て、翌昭和23年1月校友会新聞K・Sタイムス創刊の運びとなった。こうして文芸班が推進力となり全生徒の賛成で発足した学校新聞であるから、創刊にあたって魚田先生は次のように述べてその意義を高く評価したのであった。「この高原の静かな学園に、ささやかながらも生徒自ら言論と報道の機関を持つようになったことは、まことに意味深いものがある。(中略)」K・Sタイムスは昭和24年9月の12号まで、特別号を入れて13回発行、創刊号を除き生徒の手で刊行した。(中略)この新聞紙上の文芸欄が文芸班の会誌を代行、短歌・俳句・詩・随筆が掲載された。

「校友会」というのは、生徒のクラブ活動、学校経営参画の自治機関であり、現在の生徒会のルーツだと思われます。本校では、昭和2010月に発足し、校長を会長とし、教員も役員に入っていましたが、県アメリカ軍政部の指導を受けて、昭和2224日生徒の中から正副会長を選出する選挙を行い、教員は校友会役員から総退陣しています。「校友会は俺たちのものだ、教員に干渉させるな」という行き過ぎの声も出るほど、熱を帯びていたようです。この中でも特に急進的なメンバーが「文芸班」に入っていたようです。

以後「文芸部」の活動の記録が次のように綴られています。

K・Sタイムスは資金・技術・人材難のため昭和24年9月の12号で発行をストップ、以後壁新聞にかわり、昭和25年1学期に出版部の手でスクールライフ1号、上高新聞1号を発行したが続かず、ここに弘報委員会による学校新聞の再出発となったわけである。

文芸部はK・Sタイムス掲載の文芸欄の俳句・短歌・詩・作文を募集、掲載、24年度はこれに雑誌「山なみ」1~3号を発行したが、これはザラ紙ガリ刷の粗末な体裁で、俳句・詩・短歌を書き並べた程度のものであった。

出版部文芸班は、24年度の1~3号の「山なみ」をうけて、編集・内容ともに一段の進歩を示す第4号を発行した。

昭和25年9月の文芸部誌「山なみ」4号に続いて、昭和27年2月発行の5号は活版印刷となり、クラブ誌らしい体裁が整うとともに、作品の種類もそれまでの詩・短歌・俳句のほかに、創作・随筆・論文・文芸作品読後感想など多彩で、その内容も、広く深い読書と思索を経て来た者にしてはじめて書きうるものが多く含まれ、文芸部活動の格別の進歩のあとが窺える。その後毎年1回発行されて、30年度の9号まで、回を重ねるごとにやや重厚味をうすめてはいるが、部活動の充実ぶりを背景に感じさせるものであった。

文芸部も前期末から次第に影を薄めていて、1年に1回発行の「山なみ」の原稿にさえ事欠く状態となり、その11号、12号は全く粗末で、活動の衰退を如実に示している。しかし、34年度良き顧問教師を得てがぜん活発となり、部員の創作がかなりのページ数を占めていることは、以前の「山なみ」には見られないことである。

これらの記述を繋げて考えると、文芸部は昭和22年「出版部文芸班」として出発しました。今でいう生徒会の、物言うメンバーで構成されていたがゆえに、学校から見るとやや危険な存在で、会誌発行の継続は断念させ、KSタイムス(学校新聞)を生徒自らで発行させて、その紙面に短歌や俳句、詩など創作したものを掲載させていたようです。昭和24年度からは雑誌「山なみ」1~3号を発行、昭和25年の「山なみ」4号、昭和27年「山なみ」5号、その後30年度には「山なみ」9号を発行しています。文芸的で深い作品が多く散在し、活動がかなり充実していたようです。

その後活動は一度下火になりますが、34年度によき指導者を得て活動が再び活発になったようです。しかしながら、指導者を頼る時点で、創部当初の脱線しそうなほどの生徒の自主的な情熱は失われたと言わざるを得ません。この後、文芸部の活動は、昭和58年度まで細々と続き、昭和60年度に姿を消すのでした。

『山なみ』がいつの間にか『山麓』になった経緯については調べてみたいと思いますが、『山麓』第6号(昭和51年度)の表紙には、『山なみ』26号の名前も入っていて、なぜかこの号だけダブルネームになっています。

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