上高今昔
愛媛県の高校生の数は、1990年(平成2年)をピークに減少し、平成2年(1990年)と令和3年(2021年)を比較すると、半分以下になっていることが分かります(愛媛県教育委員会データによる)。

これに伴い、県は平成16年度から平成25年度まで段階的に「県立学校再編整備計画」を立て、県立学校の定員の見直しや、分校化について検討してきました。その中で、高等学校の適正規模を「1学年3学級~8学級を基本」とし、この基準を下回る学校は原則として「募集停止」を検討するということになっていました。
しかしながら、これでは人口減少が著しい地域において、地域で唯一の高校が廃校の危機を迎えることになります。そこで「再編整備基準(チャレンジシステム)」として「入学生が60人以下の状況が3年続き、その後も増える見込みがない場合は、1学科2学級の学校は1学級の定員を30人、2学科2学級の学校は1学科の定員を30人とし、1学年の定員を60人とした上で、本校として存続させる。」という特例の基準を新たに提示しました。
この基準をもとに、久万高原町に唯一の高校である上高は、平成21年度から募集定員が「普通科30名、森林環境科30名」となり、小規模ながらも本校として存続していける可能性が残されたのでした。
「上高今昔49生徒数今昔」で示したとおり、上浮穴高校の生徒数減少は愛媛県に先行する形で、昭和50年代後半から急激に進んでおり、生徒数確保は喫緊の課題でした。同窓会もそれを危惧し、平成9年10月には同窓会主催で「上浮穴高校活性化対策会議」が開催され、久万高原町にも働きかけを行い、平成11年には久万高原町が主催で「上浮穴高等学校振興対策協議会」が設立されました。
「上浮穴高等学校振興対策協議会」で議論が重ねられた結果、18年度からは「上浮穴高等学校教育振興補助金要領(生徒数確保に係る通学費等補助)」が適用され、平成21年度からは「久万高原町ふるさと奨学生に対する奨学金支給条例」が適用されることとなります。バス等で遠方から通ってくる生徒の交通費の援助(7割以内負担)と、町内から入学してくれた生徒への奨学金支給(月1万円の支給 選考あり)を久万高原町にしていただけることになりました。さらに、入学生全員に入学支度金7万円の支給、海外研修費用の9割の補助をしていただくなど、久万高原町には恩を返しきれないほどの支援を受けているのです。
このように見てくると、県でチャレンジシステムという基準が設けられたこと、そしていち早く町に手厚い支援をしていただいてたおかげで、上高は存続し、現在生徒募集に全力で力を注ぐことができているというのが分かります。
令和5年度から、本校は、「魅力化推進校」として、その基準が適用されていますが、「入学者が3年連続30人以下」で、今後も増える見込みがないという判断をされると、学校はなくなってしまいます。毎年31人以上という最低の数字は常に意識し、しかし存続だけに重きを置くのではなく、地元、町外、県外出身者が集い、他の学校にはない魅力ある教育を提供できる場を目指していきます。県の施策、町の施策、学校の自助努力がうまくかみ合うことで、自ずと上高校は存続し、町にも貢献できるのではないかと思っています。
上高今昔
本校の文化部の一つに、「郷土芸能部」があります。
調べてみると「郷土芸能部」は、昭和60年度愛好会としてスタートしました。それから平成16年度までの20年間愛好会として存在し、一度途絶えます。ところが、平成21年度に再度愛好会として復活し、平成24年度に晴れて部活動に昇格しています。
毎年、三島神社で行われる久万郷全体の田畑の五穀豊穣を願った「夏祭り」では篝火の中で「久万山五神太鼓」が演じられ、迫力ある演技と幻想的な雰囲気で観衆を魅了します。この「久万山五神太鼓」を練習し、さまざまな機会に披露するのが「郷土芸能部」の活動です。
最近では、高文祭のオープニング(令和3年度)や、農業クラブ四国大会(令和6年度)のアトラクションとして、郷土芸能部のメンバーが「久万山五神太鼓」を演じました。また毎年本校の体育祭でも「久万山五神太鼓」を午後の一番目に演じ、観客を楽しませています。
「久万小田郷総鎮守三島神社」HPに五神太鼓の由来が書かれてあります。
ときは群雄割拠の戦国時代の(約400年前)、ところは、伊豫・土佐両国の国境(現在の久万郷)。久万山大除城主は大野直昌は、土佐方に包囲され滅亡の危機に陥った。その時、直昌公は神のご加護を得んと、守護神・ダイバの仮面を小姓衆に付けさせ、太鼓・樽を一斉に打ち鳴らし神に奉じた。願い、祈りは天に通じ、空にわかにかき曇り時ならぬ夕立襲来を呼んだ。この機に乗じ久万山方は、土佐方の一瞬の間隙をつき一気に打ち出し窮地を脱したと伝えられている。
爾来、直昌公の氏神に対する感謝・崇拝の年は益々厚く、魔除先達の神としてダイバの仮面をつけ太鼓を打ち鳴らし、久万山五神の神々に感謝のまことを捧げたと伝えられている。尚、打ち方は、柔・鋭・激 すなわち柔らかく、鋭く、力強くをモットーに各人おのおのの自由演技の真髄を等して、見栄を切り、強く激しく打ち切る所がこの太鼓の最大の見せ場となっている。 (久万小田郷総鎮守三島神社 HPより)
「ダイバの仮面」と出てきますが、「ダイバ」「ダイバン」とは中四国地方で鬼のことを意味するようです。顔にぴったり合った鬼の面は迫力がありますね。

また、『久万町誌 補訂版続編』(平成16年7月)には、次のように書かれています。
久万山五神は、空・風・火・水・埴(土)の霊神である。昭和五九年に誕生し、毎年三島神社の祭礼に奉納されている。久万小学校、久万中学校、上浮穴高校に五神太鼓クラブが置かれ、運動会などの学校行事で演奏された時期もあったが、諸般の事情で現在は小学生が神社で練習をしている状況である。
てっきり、戦国時代から継承されてきた伝統文化だと思いこんでいましたが、今演じている形の歴史は案外浅く、「昭和五九年に誕生し」とあるので、まだ四十年ほどしか経っていません。昭和60年度に愛好会ができたのもこれを若い世代で普及させようという動きであったことが分かります。
部活動としては歴史の浅い「郷土芸能部」ですが、是非この部が地域文化継承の場として末永く続いていくことを願います。保存会の方や卒業生の方にも時々ご協力いただいております。ありがとうございます。
現在は産業文化会館を借りて、毎週木曜日に練習を行っています。
上高今昔
上浮穴高校が、創立以来どのような生徒数の変化をたどってきたのか調べてみました。まず昭和16年上浮穴農林学校は「修業年限3年、定員150名(1学年1組、1組50名)の、まことにささやかな甲種農林学校としてスタート」します。「二十年史」には次のようにあります。
昭和16年4月7日、県立上浮穴農林学校開校式並びに第1回入学式が久万国民学校講堂で挙行された。52名の入学者に、100名に近い来賓、父母をまじえたこの式典は、群民の注視と祝福を浴びつつ、歓びに溢れ観劇に咽ぶ空気のなかで盛大に行われた。
三期生が入学して、男子生徒が1、2、3学年とそろった昭和18年4月、女子部が開設され、その1年53名を加えて生徒数は206名となった。女子部は国民学校高等科卒業を入学資格とする、修業年限2年、定員100名(1学年1組50名)の本科と、本科卒業またはそれと同等以上の学力を有することを入学資格とする、修業年限1年、定員50名の専攻科(家政科)であった。
その後、昭和23年に普通科も有する現在の「上浮穴高等学校」になり、どんどん生徒数は増加します。

そして、昭和40年代にピークを迎え600人台で推移しています。ところが、昭和50年代の後半から、生徒数が減少し始めます。5年おきに見てみると、
昭和50年度 605名
昭和55年度 558名
昭和60年度 425名
平成2年度 310名
平成7年度 184名
平成12年度 176名
平成17年度 157名
平成22年度 135名
平成27年度 131名
令和2年度 141名
令和7年度 107名
このような急激な生徒数減少を危惧し、町長を会長とする「上浮穴高等学校振興対策協議会」が平成11年に立ち上がり、現在に至ります(上高今昔51参照)。通学補助や海外研修、ふるさと奨学金など、上高は様々な面で町からサポートをいただき存続しています。
しかしながら、「久万高原町」が合併した平成16年、9千人強いた人口は、現在7千人を切っています。町のサポートにのみ依存するのではなく、郡内・郡外・県外の中学生が、心からここで高校生活を過ごしたいと思う学校を作っていきたいと思います。
上高今昔
『二十年誌』に「文芸部」について創部時期の記述がある。
文芸班(俳句・詩・短歌)は、物資不足の終戦直後、紙不足・資金難で会誌発行の熱望が果たせないため、久万町のある商人の好意で商売を手伝い、得た報酬で会誌発行にこぎつけた。ところでこのクラブは校友会の進歩分子が多く集まっていたので、会誌で教員を批評するやら非難するやらした。これが学校に知れて一騒動もちあがり、学校もそれ程会誌が出したいのなら学校新聞をつくってその紙上にと、昭和22年12月の校友会総会の満場一致の承認を得て、翌昭和23年1月校友会新聞K・Sタイムス創刊の運びとなった。こうして文芸班が推進力となり全生徒の賛成で発足した学校新聞であるから、創刊にあたって魚田先生は次のように述べてその意義を高く評価したのであった。「この高原の静かな学園に、ささやかながらも生徒自ら言論と報道の機関を持つようになったことは、まことに意味深いものがある。(中略)」K・Sタイムスは昭和24年9月の12号まで、特別号を入れて13回発行、創刊号を除き生徒の手で刊行した。(中略)この新聞紙上の文芸欄が文芸班の会誌を代行、短歌・俳句・詩・随筆が掲載された。
「校友会」というのは、生徒のクラブ活動、学校経営参画の自治機関であり、現在の生徒会のルーツだと思われます。本校では、昭和20年10月に発足し、校長を会長とし、教員も役員に入っていましたが、県アメリカ軍政部の指導を受けて、昭和22年2月4日生徒の中から正副会長を選出する選挙を行い、教員は校友会役員から総退陣しています。「校友会は俺たちのものだ、教員に干渉させるな」という行き過ぎの声も出るほど、熱を帯びていたようです。この中でも特に急進的なメンバーが「文芸班」に入っていたようです。
以後「文芸部」の活動の記録が次のように綴られています。
K・Sタイムスは資金・技術・人材難のため昭和24年9月の12号で発行をストップ、以後壁新聞にかわり、昭和25年1学期に出版部の手でスクールライフ1号、上高新聞1号を発行したが続かず、ここに弘報委員会による学校新聞の再出発となったわけである。
文芸部はK・Sタイムス掲載の文芸欄の俳句・短歌・詩・作文を募集、掲載、24年度はこれに雑誌「山なみ」1~3号を発行したが、これはザラ紙ガリ刷の粗末な体裁で、俳句・詩・短歌を書き並べた程度のものであった。
出版部文芸班は、24年度の1~3号の「山なみ」をうけて、編集・内容ともに一段の進歩を示す第4号を発行した。
昭和25年9月の文芸部誌「山なみ」4号に続いて、昭和27年2月発行の5号は活版印刷となり、クラブ誌らしい体裁が整うとともに、作品の種類もそれまでの詩・短歌・俳句のほかに、創作・随筆・論文・文芸作品読後感想など多彩で、その内容も、広く深い読書と思索を経て来た者にしてはじめて書きうるものが多く含まれ、文芸部活動の格別の進歩のあとが窺える。その後毎年1回発行されて、30年度の9号まで、回を重ねるごとにやや重厚味をうすめてはいるが、部活動の充実ぶりを背景に感じさせるものであった。
文芸部も前期末から次第に影を薄めていて、1年に1回発行の「山なみ」の原稿にさえ事欠く状態となり、その11号、12号は全く粗末で、活動の衰退を如実に示している。しかし、34年度良き顧問教師を得てがぜん活発となり、部員の創作がかなりのページ数を占めていることは、以前の「山なみ」には見られないことである。
これらの記述を繋げて考えると、文芸部は昭和22年「出版部文芸班」として出発しました。今でいう生徒会の、物言うメンバーで構成されていたがゆえに、学校から見るとやや危険な存在で、会誌発行の継続は断念させ、KSタイムス(学校新聞)を生徒自らで発行させて、その紙面に短歌や俳句、詩など創作したものを掲載させていたようです。昭和24年度からは雑誌「山なみ」1~3号を発行、昭和25年の「山なみ」4号、昭和27年「山なみ」5号、その後30年度には「山なみ」9号を発行しています。文芸的で深い作品が多く散在し、活動がかなり充実していたようです。
その後活動は一度下火になりますが、34年度によき指導者を得て活動が再び活発になったようです。しかしながら、指導者を頼る時点で、創部当初の脱線しそうなほどの生徒の自主的な情熱は失われたと言わざるを得ません。この後、文芸部の活動は、昭和58年度まで細々と続き、昭和60年度に姿を消すのでした。
『山なみ』がいつの間にか『山麓』(現生徒会誌の名称)になった経緯については調べてみたいと思いますが、『山麓』第6号(昭和51年度)の表紙には、『山なみ』26号の名前も入っていて、なぜかこの号だけダブルネームになっています。

上高今昔
現在、吹奏楽部は少人数ながら、積極的な活動を行っています。令和6年度には本校の「魅Can部」として活動し、地域のイベント(「くままちひなまつり」や「林業まつり」等)にも積極的に参加しています。つい最近も、「星まちコンサート(トーンチャイム演奏)」を久万高原町役場前で行い、これは夏の恒例行事になりそうな予感です。

さて、吹奏楽部の創部について、「二十年史」P91の表(上高今昔38参照)にはまだ名前がないので、昭和36年度までは、部がなかったようです。「芸能部」がその前身かとも思われますが、「芸能部」は昭和32年度には姿を消しています。
ところが、「50周年記念誌」には次の写真が掲載されています。

「創立20周年記念 昭和35年ブラスバンド部初演」(50年誌P39)となっていますので、このあたりで結成されたと考えられますが、「二十年史」の記述とは食い違っています。20周年記念行事でのまだ部活動にはなっていない音楽選択生の発表の写真を、「五十年誌」を編集された方が「ブラスバンド部」と認識されたのではないかと思うのですが、正確な事実は不明です。
また、「60周年記念誌」には、昭和40年ブラスバンド部の写真が掲載されています。

職員室には、昭和48年から現在に至るまでの学校要覧が保管されています。部活動のところでをチェックしていくと、「吹奏楽部」はもともと「音楽部」と呼ばれていて、昭和60年度に「ブラスバンド部」に名称を変え、さらに平成12年度に「吹奏楽部」に名称変更し、現在に至ります。ですから、上の二つの記念誌からの写真(昭和35年・昭和40年のブラスバンド部の写真)は、「ブラスバンド部」ではなく正しくは「音楽部」ではないかと思います。
これまで、吹奏楽部は、対外的な大会等で華々しい成績はないようですが、今年度3年生の田村さんが「第49回全国高等学校総合文化祭 器楽・管弦楽部門」に、愛媛県の合同チームのコントラバス奏者として参加します。
今後も、吹奏楽部には、音楽を楽しむ姿を見せてもらい、学校・地域を盛り上げていってほしいと思います。
上高今昔
今年2025年は昭和100年。上浮穴農林学校が認可された昭和15年を上高誕生の年と考えれば、上高は今年で85歳を迎えます。人間で言えばまずまずの年齢ですが、学校の年齡で言えばまだまだこれからです。まずは90歳、そして大きな節目の100歳を、そしてその後も久万高原町とともに歩んでいきたいものです。
さて、ここに『四十年誌』 があります。上高40歳、そして45年前の高校生(現在60代前半の方)の声が多く掲載されています。

最近の本校の批評は、と言うと、以前と比べるとあいさつや態度にしても、それ相応によくなって来ているように思う。友達と5・6年前の上の話をよくする。その時によく出てくる言葉というと「昔の上高は酷かったなあ。」である。実際、昔の上高は酷かったように思う。問題行動ばかり起こしていたようだ。現在の上高生の中には、これと言った問題行動を起こすといった生徒もいないようだ。しかし、それだけで、上高がよくなったと言っていいのだろうか。(中略)先生と擦れ違っても、会釈をする生徒などはほとんどいないし、授業の始めと終わりの礼などもざっとしたもので、ある授業では、数名の者が起立して礼をするが、あとの者は椅子に座ったままである。(3年男子)
今の私の高校生活は、クラブ活動にしても勉強にしてもエネルギッシュに情熱的に、自分自身を完全燃焼させることができるものがなく、あらゆる新しいものを取り入れるべきであろうこの時期に、自分では何もしようとせずそれらのことを放棄し、将来のために自分で工夫や努力をして何かを勝ち得ようともせず今の自分に小さく満足して、他人からあたえられたような環境に妥協している状態なのです。(中略)他人の目を鏡のように気にして、外見だけを生きがいとし、自分を傷つけまい、失敗すまい、友達に笑われまいとして、何のとりえもないような高校生になってしまいそうな気がします。(2年女子)
上浮穴高校、今、県下でどうおもわれているだろう。進学率、部活動となににしても活躍していない。そして、相手にもしてもらえない。気にもとまるような学校ではないと思う。(中略)サッカー部の歴史について、過去、県で優勝、四国で準優勝という偉業をなしとげている。どのような練習をしたんだろうか、どうして勝っていたんだろうかと思う。(中略)しかし、その後は、成績も悪く、だんだんと落ちぶれていき、悪いサッカー部、とんでもない部、練習をしない部と、高校に入ってから先輩によく聞かされた。過去の輝かしい部、そして今の部、あまりにも差がありすぎ、とてもなさけないとおもう。(3年男子)
華やかな40周年記念のイメージとは裏腹に、ネガティブな記述が目につきます。高校生活の中で充実感が得られず、鬱々とした日々を送っている様子がうかがえます。学校創設から40年目、当時生徒であった方々に閉塞感のようなものが漂っています。そして、自分たちの置かれている状況を客観視し、感情をストレートに表現しています。
昭和55年と言えば、戦争は遠くなり、今ほどでないにせよ物質的にも満たされていった時代です。バス等の交通機関の整備で、久万高原町の交通事情もよくなってきていたと思います。建学の精神や、郡に一つの高校を求めた戦前の地域の方の声も遠いものとなり、先輩たちの苦労や部活動での偉業もプレッシャーでしかなく、鬱々とするしかない当時の高校生の気持ちが赤裸々に語られています。
今、この時代からさらに45年が経過しました。全国募集も始まり、学校の状況は45年前とはまた違っています。今の生徒たちは、当時の生徒ほど気持ちを吐露することはありませんが、どんな思いを抱いているのでしょうか。
上高今昔
今年度、剣道部は新1年生に強力な男子3名が入部し、にわかに活気を帯びてきています。
また、外部指導者に本校の同窓生でもある菅先生をお迎えし、技術指導を行っていただいています。

今年度の県総体では男子は吉田高校と対戦し、4名という数的不利な状況でありながら、4-1で勝利し2回戦に進みました。
2回戦は強豪新田高校と対戦しましたが、気持ちで負けることなく戦い抜きました。今後が楽しみなメンバーです。
さて、創部当初の様子について、次のように書かれてあります。
剣道部は32年度に新設されるや、この年5月の総合体育大会でCゾーンで3勝1敗、11月の大会にも3勝1敗で準優勝に惜敗したが、早くも県高校剣道会に「上浮穴強し」の声があがった。翌昭和33年5月の総体では強敵宇和島東高と決勝を争い惜しくも3対2で敗れた。しかし、この戦績により、8月秋田市で開催の全国高校剣道大会にのぞみ、9月には四国高校剣道大会に宇和島東とともに出場した。(中略)34年、35年はやや沈滞気味であるが、斯界の評価は高く、剣道のさかんな本郡であるから将来もっとも期待を託せるクラブである。(『二十年史』)
その後も、『四十年誌』の年譜を見ると、昭和36年には髙橋博雄さんが県総合体育大会で個人優勝を果たし、岐阜市で行われた全国高校剣道大会に出場しています。そして、昭和40年6月の県総体では男子が団体優勝、昭和41年四国高校剣道選手権で岡崎博志さんが個人優勝、昭和42年四国高校剣道選手権で高岡忠さんが個人ベスト4、昭和45年県高校新人剣道大会で女子団体優勝、昭和47年県総体女子団体優勝、そのまま四国大会でも優勝を果たし、山形県で行われた全国高校総体に出場しています。また、昭和52年には正岡慶二郎さんが、国民体育大会(佐賀市)に出場と、枚挙にいとまがありません。『二十年史』で「将来もっとも期待を託せるクラブである」と語られていることは現実になっていました。

このように、伝統と栄光ある剣道部が、半世紀の時を隔て再び活躍することを願います!
上高今昔
今年も、全国高校野球選手権愛媛大会が開催されています。
本校は今年度北条高校・内子高校小田分校・済美平成高校との合同チームで参加し、3年生1名がエースで4番を務め、東温高校と対戦しました。

残念ながら5回コールドで敗れてしまいましたが、合同チームの形で毎週のように練習試合を行い、3年間よく頑張りました。本当にお疲れさまでした。
野球部の創部のいきさつについては、次のように書かれてあります。
野球部は25、26年度軟式の部がおかれたが、当時運動場が狭く、経費が莫大にのぼる点もあって廃止された。しかし、地域の方々の野球部設置希望はその後ますます強く、30年度運動場拡張工事が竣工するに及び、強力な運動がおこって、33年度硬式野球部の誕生にいたったのである。(『二十年史』)

『二十年史』に掲載されている校内敷地図です。1枚目は昭和23年の様子で、2枚目が、昭和39年のものです。実習畑・実数田を削る形で運動場が大きく北に広がったのが分かります。運動場が十分確保されたのをきっかけに、外部からはますます野球部創部の声が高まったようです。しかし、一方では次のような声も掲載されています。
昭和32年度、体育後援会の理事会はPTA体育委員会提案の野球部創設について検討した。この会に先立って調査した生徒のアンケートでは、創設賛成80%、男子54%で、男子の中にかなりの反対があり、教員・PTA・地元有志のなかにも野球部はなにぶん莫大な創設費と維持費がいる、冬期練習が不可能であるから成長の天井もしれている、などの理由をあげてむしろ本郡に適したスポーツこそ伸ばすべきだと反対する者もかなりあった。しかし、大勢は賛成で、32年度PTA総会で正式に発足が決定した。
賛否両論あったようですが、多くの地域の方の後押しもあり、野球部が創部に至りました。昭和35年にはベスト8に入り、着実に力を付けています。

35年度夏の大会には川之石高をシーソーゲームののち6対4で降し、続く2回戦で東温高校を8対0の大差で破り、準々決勝で宇和島東高に7対0で敗れた。(中略)県下ベスト8に進んで上浮穴高校野球部の存在を県民に強く印象づけた。(『二十年史』)
『四十年誌』の校史年表には、昭和44年7月、「高校野球県予選で、1回戦松山南高に4対3、2回戦西条農高に2対1で勝ち、3回戦に進出」したことも書き留められています。
その後、本校出身のプロ野球選手も誕生します。昭和54年普通科を卒業した丸山一仁さんです。高校卒業後は近畿大学に進学し、その後昭和58年ロッテオリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)に入団して、7年間現役生活を送ります。引退後も球団でコーチや広報、選手育成などの仕事に携わりました。令和3年には、本校で80周年の記念講演をしていただいています。(下写真は『創立80周年記念誌』による)

近年少子化の上に、野球人口の減少もあり、本校のみならず他校でも単独で大会に出場できない学校が増加してきています。合同チームという新しい形、合同応援という新しい形を受け入れながら、野球をしたい生徒がどの高校でも野球を楽しめる環境を作っていきたいものです。
上高今昔
図書館に2枚の古い写真が額に入って埋もれていました。
1枚目の写真です。

学校全体を撮影した航空写真です。グラウンドに校章の人文字が見えます。

L字型の旧校舎、知今堂・図書館が確認できます。
旧体育館も建っていることから昭和38年7月以降、そして林業科教棟がまだ建っていないので、昭和46年より前に撮影されたものです。
人文字を描き、わざわざ航空写真を撮っていることから、昭和45年の30周年記念かと思ったのですが、『四十年誌』(P17)に同じ写真が掲載されていました。「25周年記念航空撮影」と書かれてありました。昭和40年頃のものです。30周年記念は、記念誌を作らず翌年の昭和46年10月14日に式典のみが行われています。(上高今昔30)
2枚目の写真です。

これも航空写真で学校全体をやや、南側から撮影したものです。
校舎等の配置はほぼ今に近い感じですが、旧体育館です。
そして北の方まで広くとらえているので、現在の星天寮のあたりも確認できます。

よく見ると寄宿舎の手前に弓道場ではなく土俵が確認できます。
また、グラウンドを見ると夜間照明設備が確認できます。

ということは、グラウンドに夜間照明が設置される昭和52年2月より後で、土俵が弓道場に変わる昭和55年より前、昭和52〜54年頃に撮影時期が限定されます。
上高は、戦時下に認可され、建物や施設・設備は順次整えられていった歴史があり、それらの様子を見れば、いつの時代に撮影されたものかが特定しやすいのです。
上高今昔
手元に平成12年度から令和7年度までの「上高ノート」(平成28年度までは「生徒手帳」)があります。
本校では「身だしなみ規定」が昨年度(令和6年度)末から生徒会・職員間で検討され、大きく変わったので今回は「身だしなみ規定」に注目してその変遷を見てみたいと思います。
平成12年度までは、生徒心得の中の一つの項目に「服装は学校指定のものを正しく着用し、頭髪は端正かつ清潔にしよう。」とあるだけで、細かい規定は掲載されていません。
ところが平成13年度になると、急に「身だしなみ規定」が掲載されます。

そして平成15年度からは図式で「身だしなみ規定」が示されるようになります。

さらに平成18年度からは「極端な長髪は禁止」(男子)という記述から「前髪は眉にかからない」「横は耳にかからない」「後は襟にかからない」(男子)という風に、より細かく規定が定められるのでした。
靴下の色も、それまで男子は「白・灰・紺・黒の単色」であったのが、平成18年度に「白」一色に限定されます。おそらく、乱れた身だしなみを正したいという学校の思いがあったように感じます。そしてこの時定められた規定が基本的には令和まで続いていきます。
平成の終わりころから「ブラック校則」という言葉が広がり、マスコミや世間は、学校の校則に注目するようになります。学校の方も、生徒主体の「校則検討委員会」を開き、見直しが盛んに行われるようになりました。また、制服についても、ジェンダーや近年の夏の高温化に配慮したものが登場します。
本校でも今年度から女子の夏用スラックスを導入し(冬用スラックスは令和3年度に導入済み)、それに伴って、ポロシャツ(白・紺)が急遽導入されました。また、身だしなみの規定における「頭髪」等についても、長さ等を細かく決めることはやめ、「清潔感のある頭髪」としました。また上で示したイラスト等も削除しました。
令和7年度は、平成10年代に細かく規定されていった身だしなみの規定を、生徒のみなさんとの約束と信頼をベースにしてシンプルな形に戻した、記念すべき年度と言えるかもしれません。