上高今昔38「部活動3」相撲部

2025年6月20日 10時49分

 昭和16年に上浮穴農林学校が開校し、どのように部活動は作られていったのでしょうか。

 開校当初は、設備も十分でなく校舎すら完成していない状況で、しかも1年生しかいないわけですから、部活動どころではなかったでしょう。また、時代は戦時下です。

 本校で部(クラブ)活動が形になりはじめたのは、終戦以降と思われます。

部の変遷

 『二十年史』(P91)の「クラブの変遷」の図を見ると、昭和23年度から昭和36年度まで、どのような部・クラブがあったかが分かります。昭和23年度には、運動部5、文化部10の合計15の部(クラブ)が存在しています。この頃から本格的な活動が始まったと思われます。同じく『二十年史』には次のような記述があります。

昭和21年6月、(中略)相撲大会中予地区予選を前に、相撲部がまずクラブを結成し、初の対外試合に臨んだ。「松山の参加選手は栄養失調で君たちの敵ではない」、そう激励されて会に臨んだところ、相対した相手は18、9貫もあろうと思われる巨体ぞろいでビックリ、みごととって投げられ惨敗した。この年9月の大阪毎日新聞主催の大会にも出場したが、参加12校中9位という成績であった。しかし、その後激しい練習とたびたびの対外試合で鍛え、昭和23年春、県下第1回総合体育大会で早くも優勝を飾るまでに成長した。

相撲1 昭和23年優勝 相撲3 23年優勝壮行会

 左の写真が、昭和23年の県総合体育大会で優勝した時の写真で、右は全国大会に出発する前の壮行会の写真です。また、『二十年史』には次のような記述もあります。

35年度現在、運動部クラブ数は10ある。このうち過去に輝かしい足跡を残したのは相撲部で、上浮穴高校だと言えば、「ああ、相撲の強い学校ですか」と言われたものである。しかし、32、33年ころから急速に不振となり部員数が公式試合出場人数に満たない現況である。かわって、ここ4、5年の間にぐんぐん当確をあらわしたのは蹴球部で、今や上高運動部のホープとして衆目の期待をあつめている。これに続くクラブは昭和23年以来コンスタントに成果を上げてきた陸上部、32年発足の剣道部である。他のクラブにはほとんどとどめるべき記録がないと言ってよい。

 相撲部が昭和21年から昭和23年のわずか2年間でいかに県で優勝するまでの力を付けたのか、非常に興味深いところです。生徒たちが悔しさをばねに、また優れた指導者に囲まれて一心に稽古に励んだ様子が想像されます。今はなき相撲部は、開校して間もない上高の先陣を切って愛媛県、四国に「上高」の名を知らしめた、切り込み隊長的存在でした。そして相撲部の衰退と時を同じくして台頭してきたのが、前述したサッカー(蹴球)部でした。相撲部は昭和54年を最後に部員がいなくなり、59年に上高での役割を終えたのでした。

上高今昔37「部活動2」陸上競技部

2025年6月19日 17時01分

 ここ最近部員が少なく低迷していた陸上競技部ですが、今年度(令和7年度)県総合体育大会で1年生の大河戸さんが女子砲丸で6位入賞を果たし、四国大会に出場しました。

 

    本校における陸上競技部の歴史はかなり古いようですが、調べてみると昭和62年度から3年間と、平成14年度から平成20年度の7年間休部の時期があります。近年苦戦しているようですが、創立以来もっとも華々しい成績を持つのは陸上競技部かもしれません。なんと、東京オリンピック(昭和39年)に出場した本校出身の選手がいるのです。

その方の名前は片山美佐子さんです。昭和383月卒業の方です。本校在籍中に第16回国民体育大会(秋田)に出場し、2位に入賞しています。また、昭和378月別府で開催された全国高校陸上競技大会では、やり投げ女子で全国高校界ナンバーワンの地位を獲得しています。卒業後は日本陸上界のホープとして活躍し、39年オリンピック東京大会出場(11位)、41年アジア陸上競技大会やり投げ優勝、42年メキシコプレオリンピック大会銀メダルと華々しい活躍を見せたのでした。(ちなみに本校で勤務されている片山宏二先生のおばさんで、現在松山にお住まいとのことです。)

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 オリンピック出場選手を輩出したこともある本校陸上競技部。60数年の時を隔てて、再び新たな歴史を刻んでほしいと思います。

上高今昔36「部活動1」サッカー(蹴球)部

2025年6月19日 14時16分

 本館3F東側廊下に1枚の写真がかかっています。泥んこの中でサッカーの試合をしている写真です。

膝まで泥に浸かっている状況からして、普通の公式試合ではなさそうです。何かの記念行事で「泥んこサッカー」をしているのでしょうか。

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 外して裏を見てみると、愛媛県高等学校文化連盟の紙に「泥まみれの戦い」と題して3年河口○〇さんの名前が記してあります。高校総合文化祭に出展したものでしょうか。写真の向こうにもカメラマンがいます。こちらを向いている10番の胸元には「HIGASHIUWA」と書かれてあります。

 「東宇和高校?」・・調べてみると「東宇和高等学校」は「東宇和高等女学校」を前身として234月に設置され、翌年24年の9月には「宇和農業高等学校」と合併して「宇和高等学校」になっています。戦後の学制改革の影響を受けて、「東宇和高等学校」はわずか1年半しか存在していません。それを考えるとこの写真はかなり貴重ではないでしょうか。

「東宇和高等学校」の対戦チームは、背中を向けていますがまず間違いなく本校でしょう。本校にサッカー部があったのは、平成4年度までです。それ以降平成12年度から16年度に休部という記述が「学校要覧」にありますが、一度も復活していません。

『二十年史』(昭和402月発行)には次のように記されています。

 

昭和366月の総合体育大会で昭和32年に次ぐ二度目の優勝を飾った。(中略)上浮穴高校強しの評価を一層強く斯界に印象づけた。38年度も県下ベスト8に勝ち残り、昭和32年以来このクラブは県蹴球界のダークホースの地位を常に保っている。なおこのクラブには見逃せない側面がある。それは、卒業生の後輩指導が常に行われ、とくに夏休みの練習には2、3名から4、5名の卒業生が必ず参加して後輩指導に当たっている事実である。その上、対外試合には多数の卒業生の応援があり、以上二点は他クラブに見られない側面で、サッカー部の好成績の陰の力となっている。『二十年史』(P180

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 本校に存在したサッカー(蹴球)部は、サッカーという競技が陽の目を浴びていない時代に結束力強く活動してその実力は県下にも知れ渡り、奇しくも日本にJリーグが開幕してサッカー熱が高まりを見せている時代に姿を消したのでした。

上高今昔35「知今堂」

2025年6月13日 14時46分

 学校を訪れた人が「あれは何の建物ですか?」と目を止めるレトロな建物。それが「知今堂」です。

「知今堂」は、昭和19年講堂として、現在の位置に建てられました。

  

寄贈者は、船田一雄氏(東大卒 元三菱商事理事)です。船田一雄氏については、生涯学習センター データベース『えひめの記憶』に詳しく書かれてあります。

 「昭和一六年に久万町に新設せられることとなった農林学校の建設に当たっては、郡に対してまとまった金額を寄付したほかに、明神村に割り当てられた負担額の三分の一を進んで援助したのであった。昭和一九年には一雄の寄付金をもって講堂が落成した。命名を依頼された一雄は、「知今堂」と名づけた。」 (『えひめの記憶』より)

  東明神の方で、現東京大学に進学し、検事になりましたが、その後転職して三菱商事に移りました。いつまでも郷里のことを忘れず、この上浮穴高校の前身、上浮穴農林学校に巨額の寄付をしていただいた上に、知今堂まで寄贈していただきました。

 「知今堂」の西側には、命名の由来について記された木の看板があります。

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左が今のもので、右は「上浮穴高校創立50周年記念誌」に掲載されている35年程前のものです。かなり風化して、字がだんだん読みにくくなってきているように一見思われますが、よく見ると全く別物です。今のものは「知今堂」の文字が立体の木で表現されていますし、比較的はっきり写っている「孔子」の「孔」の字を見れば別物であるのは一目瞭然です。50周年以降この看板はどこかのタイミングで作り変えられ、それが今また風化してきていると思われます。

「由来 孔子家語 観周篇より 孔子曰、吾聞老聃博古知今則吾師也 「現代をよく理解して実務に励めよ」とどちらにも書かれてあります。

 「科学的知識と技能を身に付けたスペシャリストを育成します」という森林環境科のグラデュエーションポリシーは、これを受け継ぐものではないでしょうか。

 ちなみに、「知今」という言葉が出てくる『孔子家語』(こうしけご)の観周第十一(1)の内容を分かりやすく要約すると、

「孔子は、過去に詳しく現在をよく知っている老子に教えを請おうと思い、会いに行った。いろいろ学んだ後、帰り際に孔子は老子から次のような言葉をはなむけにもらった。「よくものが見えよく知恵が回るのに、命を落としてしまう者は、人の悪口を言い立てたがるからじゃ。自己主張もたいがいにしておきなされ。他人事に腹を立てなさるな。人の家臣たる者それでは務めを貫くことが出来ぬぞ。」

というような内容です。考えさせられる内容ですね。

上高今昔34「雪景色の今昔」

2023年1月6日 12時45分
上高今昔

 令和4年末の雪は大変な降りようでした。ここのところ晴天が続き、日当たりのよいところでは、雪が解けていますが、本館の北側など日当たりの少ないところでは、雪が多く残っています(写真1枚目~3枚目)。堅く凍っていますので、通行には注意しましょう。

 雪の多い久万高原町ですので、本校の昔の写真にも、雪景色が見られます。4枚目の写真は、旧本館の雪景色です。撮影の年は不明ですが、玄関手前に「新谷善三郎翁頌徳碑」が見えることから、創立20周年の昭和35(1960)年から昭和49(1974)年の間に、西門方面から撮影されたものと思われます。

 5枚目の写真は、昭和63(1988)年11月28日に撮影されたものです。雪の中、サッカーに励んでいます。

 6枚目の写真は、平成21(2009)年12月18日に撮影されたものです。3枚目の写真と比較すると、旧の西側脱靴場の様子が分かります。令和4年に給食の搬入口に改装され、現在に至ります。

 本校の詳しい沿革は、こちら。→沿革史

上高今昔33「教育目標の今昔」

2022年12月21日 16時40分
上高今昔

    この度、本校では、令和5年度の「スクール・ポリシー」を策定し、公表したところです。(→こちら

    今回の上高今昔では、教育目標の今昔を振り返ってみました。

    本校の前庭(創立40周年記念庭園)に、大きな石碑があります。石碑には、

    「豊かな人間性」

    「高い知性と自律性」

    「たゆまぬ実践力」

と、刻まれています。この石碑は、平成2(1990)年に創立50周年記念として、同窓会の皆様により建立されたものです。4~6枚目の写真は、建立当時の式典の様子です。 

    石碑の裏側には、建立の趣旨と「教育目標の碑」である旨が記されています。この三つの文言は、正式には、本校の教育目標のうち、「指導目標」に位置付けられています。(→こちら

 一見、いわゆる校訓のようにも感じられますが、校訓ではありません。本校には、校訓はありません。

 本校の前身である「愛媛県立上浮穴農林学校」(昭和16(1941)年4月~昭和23(1948)年3月)には、校訓がありました。上浮穴農林学校が開校された年は、日中戦争(1937~1945年)の最中であり、その年の12月には太平洋戦争(1941~45年)が始まるという時代にあたります。そうした時代背景の中、開校当初の校訓は、「絶対服従」「絶対正直」「絶対真剣」というものでした。

    戦後、時代にそぐわない従来の校訓は使われなくなり、昭和23(1948)年4月、新制高校として「愛媛県立上浮穴高等学校」が発足すると、新たに教育目標が定められていきます。昭和26(1951)年に確立された教育目標は、

  〇人格の尊厳を重んじ、道義信念に基づく誠実無垢の人となる。

  〇責任と義務を明確に自覚し自主独往の人となる。

  〇自由平等の真義を悟り博愛平和の人となる。

  〇世界の進展開化におくれず協調進取の人となる。

  〇学問知識の向上に精励し技術の体得習熟に精進する。

  〇空理空論に走らず人類社会の実用に奉仕する。

というものでした。その後は、文章記述の教育目標が様々に変遷する時期が続き、昭和55(1980)年(創立40周年の年)に初めて、石碑に記された三つの目標が登場し、現在まで続いています。石碑に刻まれたことにより、事実上、本校の校訓として機能しているといえます。

 本校では、今回「スクール・ポリシー」を策定するにあたり、この三つの「指導目標」を踏まえ、「スクール・ポリシー」のうち、「卒業までに育てる力」の(1)(2)は「高い知性と自律性」を、(3)は「たゆまぬ実践力」を、(4)(5)は「豊かな人間性」を、それぞれ現代及び将来に投影したものといたしました。「不易流行」の言葉のように、本校は、これからも、伝統を受け継ぎ、時代に即応しながら、教育活動を進めてまいります。

※本校の詳しい沿革は、こちら。 →沿革史

上高今昔32「教育課程の今昔」

2022年11月28日 16時35分
上高今昔

 本校は、ただ今、第2学期末考査の発表期間中です。生徒の集中力が高まり、教員に質問している姿も多く見かけます。一方、教員は、多様な選択科目を設定した教育課程のもと、数多くの種類の考査問題を作成中です。

 昔の教育課程はどのようなものだったのか、「二十年史」を見てみました。昭和28(1953)年度入学生のものです。現在、80代半ばの先輩方でしょうか。

 普通科は、A、B、Cの3コースに分かれています。普通教科重視型、家庭・芸術重視型、商業重視型の特色が見られます。進学、家事・営農、就職など、多様な進路希望に応じたものとなっています。林業科の教育課程は、3年次において、普通科目と専門科目を選択でき、こちらも、多様な進路希望に応じることができます。なお、男女で教育課程が異なっているのは、現在と大きく異なるところです。

 これらの教育課程は、現在の本校の教育課程に酷似しています。1町1校の学校として、多様なニーズに応えるために先人が編み出した教育課程の工夫は、現在に受け継がれているといえます。

 本校の現在の教育課程については、こちら。→学校案内のページ

 本校の詳しい沿革については、こちら。→沿革史 

 

 

上高今昔31「文化祭今昔」

2022年11月4日 15時00分
上高今昔

 本日(11/4)、本校では、明日の文化祭に向けて準備中です。保護者、御家族様等に限定して公開といたしておりますので、地域の皆様の御理解をお願い申し上げます。今回の上高今昔は、創立50周年記念文化祭(平成2年11月24日(日))を振り返ってみました。32年前のことです。現在と比べると、発表において伝統文化の色彩が強いように見受けられます。また、マスクもなく、バザーや飲食も活発であったようです。

本校の詳しい沿革は、こちら。→沿革史

上高今昔30「旧本館玄関」

2022年11月1日 08時25分
上高今昔

 本校には、創立30周年記念式典(昭和46(1971)年10月14日(木))のパンフレット(写真1枚目)が残されています。表紙には、旧本館(昭和17(1942)年~昭和49(1974)年)の玄関の写真(写真2枚目)が掲載されています。現在の本館(写真3枚目)は旧本館の南側に建てられ、その際、旧本館は取り壊されています。

 現在の本館の玄関(写真4枚目)を入りますと、その向こうに中央通路(写真5枚目)が見えます。本館を出たところに水路があり、この辺りが旧正門の位地(写真6,7枚目)です。旧正門の銘板は、現在の正門に移されています。中央通路を少し進んだ辺りが、旧本館玄関の位置(写真8枚目)です。

 旧本館が完成した昭和17(1942)年は、太平洋戦争(昭和16(1941)年~昭和20(1945)年)のさなかです。多難な時代に学校を立ち上げた先人の皆様の努力に感じ入る次第です。

 本校の詳しい沿革は、こちら。→沿革史

上高今昔29「メタセコイア」

2022年9月14日 16時45分
上高今昔

 本館から体育館に伸びる中央通路の両脇に、大きな「メタセコイア」の木があります。15mほどにも育つ木ですが、大きくなりすぎたため、現在では、縮伐しています。幹の太さは80㎝ほどもあります。

 メタセコイアは、「生きている化石」と呼ばれています。戦前の昭和14(1939)年、三木茂博士がセコイアに似た植物化石を発見し、「メタセコイア」と命名しました。メタセコイアは新生代第三紀に栄え、絶滅したものと考えられていました。しかし、戦後の昭和21(1946) 年、中国で現存するものが発見され 、「生きている化石」として一躍有名になりました。その後、昭和24(1949)年に、育苗していたアメリカの博士から我が国に挿し木が贈呈され、その苗が日本各地に広がり、街路や学校等に植えられました。教材として好適だったと思われます。スギ科の植物ですが、落葉します。春の新緑、夏の深緑、秋の紅葉、冬の枯れ姿が楽しめます。

 本校は、戦前の昭和16(1941)年に「愛媛県立上浮穴農林学校」として開校され、戦後の昭和23(1948)年に新制高校である「愛媛県立上浮穴高等学校」となりました。メタセコイアの由来から考えると、新制高校初期に、旧正門の両脇に植えられたものと考えられます。

 ところで、平成2(1990)年頃の写真を見ると、旧西門跡にも、メタセコイアが見られます。現在では、切り株となっています。最後の2枚の写真は、昨年の11月中旬の様子です。

 本校の詳しい沿革は、こちら。→沿革史