上高今昔59(「地域みらい留学」への参画)

2025年10月8日 16時01分
上高今昔

 本校は、一般財団法人地域・教育魅力化プラットフォームが主催している、「地域みらい留学」の受け入れ高校に名乗りを上げ、令和2年度から森林環境科において学区外(主に県外)生徒の受け入れを行っています。そのために、久万高原町に立派な寮(「星天寮」)を建設していただき、教職員による舎監制度を確立させ、寮生限定の給食制度も導入しました。当初はコロナ禍の真っ最中で、多難を極めましたが、毎年順調に留学生が入学し、令和5年度からは普通科でも留学生を受け入れるようになりました。現在では30名定員の寮がいっぱいになるのではといううれしい悲鳴も出ていて、シェアハウスなど新しい住環境の構築をして、さらに受け入れ態勢を万全にしているところです。
 「地域みらい留学」とは、地方の県立高校へ、県外(主に都市部)の中学生が進学をする制度で、少子化や過疎化による地方の公立高校の魅力向上と、都市部の生徒への新たな教育選択肢の提供を目的として2018年に開始されました。「少人数教育による個別最適化」「地域課題解決型学習」「偏差値重視からの脱却」「多様な進路の実現」といったメリットがあり、全国的にも今注目を集め、留学生数も年々増加しています。

スクリーンショット 2025-10-08 161400

(一般財団法人地域・教育魅力化プラットフォ―ムHPより)

 愛媛県では現在9つの県立高校が受け入れを行っており、9月にはその9校が独自に集まり、松山で「合同説明会」を実施して、県内の中学生にもその魅力をアピールしました。
 8月東京で行われた対面の説明会では、本校に興味を示していただいた方も多く、それが学校見学や、県が主催するバスツアーにもつながっています。

IMG_2199

 この写真は、今年度の東京での対面説明会の様子です。説明を聞きに来た人の中には、中学3年生だけではなく、中2・中1中には小学生もいて、改めて関心の高さを実感しました。
 さて、本校での留学生受け入れも6年目を迎えました。今年度も県外から9名の県外生徒さんを迎え、「星天寮」もにぎわっています。安定した県外生の入学は、地元からきていただいている、久万中・美川中の生徒のみなさんにもいい刺激になっていると思います。学校も活性化しています。学校と町との交流も活発になっています。近い将来、県外から来ていただいている生徒さんの中で、久万高原町に定住、就職する人が出てくれば、この試みは直接的な地域活性化にもつながると考えています。
 近年の県外生徒の受け入れは、子どもの数が減少傾向にある町の高校と、全国的な留学熱が結びついた国が後押しする事業であり、上高、久万高原町に転機をもたらすこれまでにない大きな変化と言えるのではないでしょうか。

上高今昔58(普通科の誕生)

2025年10月6日 17時08分
上高今昔

 本校は、もともと「農林科」のみの単独制高校でしたが、戦後(昭和23年) 「普通科」も併せ持つ総合制高校に昇格しました。 沿革には「23. 4. 1愛媛県立上浮穴高等学校となる。普通科・農業科設置される。」とあります。地域の子どもたちの多様なニーズに対応する学校に進化し、喜ばしいことのように思われますが、周囲の反応は意外にもそれだけではなかったようです。

 『創立50周年記念誌』(平成3年7月発行)の中で、「上高同窓会の歩み」と題して、当時同窓会事務局長隅野正行さん(昭和26年卒業 普通科 第1期生)が、本校に普通科が設置された時の町や同窓会の反応を、詳しく書いておられます。

 昭和23年学制改革により(上浮穴農林学校は)普通科を設置した総合制高等学校に昇格し新発足した。この昇格問題については普通科を加えることについて、農林科の単独制にするか、総合制にするか、の問題で学校の中でも地域社会においても意見が分かれ大いに議論された。普通科を設置すれば施設・設備が著しく不備な現状では、普通科・農林科とも充実が果たせず、また実習のない普通科生がいることが農林科経営にも種々の支障が生じる等、様々な理由から総合制反対の声が強く、学校の方針も反対の方向に傾いていった。しかしこの方針も文部省・進駐軍に許容されず、総合制へ方針を変更したのである。
 この問題について昭和23年2月に、同窓会臨時総会が開かれ、普通科設置に対する同窓会の立場は反対である、と絶対多数で可決され、直ちに委員を選出し熾烈な反対運動を展開した。結果として国の方針に抗し切れず、また在学生にも多大な迷惑をかける、という理由で涙を呑んで矛を収めたのである。しかし新制高校発足後、学校運営に協力する方針を定めながらも、なお一部で感情のもつれを払拭しきれず、今村完道校長との口論や、普通科教員との融和を欠く点もあり、少なからずトラブルがあった。校内においても普通科生と農業科生との間に鉄拳制裁があり、昭和26年にまで及んだ。私自身、昭和23年度入学の普通科第1期生として3年間鉄拳の最中を過ごし、普通科生と農業科生とのしこりの深さを身をもって体験した一人である。量的に優勢な農業科生には抗し切れず、在学中は両者の融和は図れなかった。卒業後も同窓会に入会せず、昭和27年度発行及び昭和32年度発行の同窓会名簿にその名をとどめていないという不幸な結果も生んでいる。

 普通科を設置するにあたり、反対する声が強く、設置後もなかなか「融和が図れなかった」事情が生々しく書かれています。「鉄拳制裁」という穏やかでない言葉も使用されています。学校の沿革だけ見たのでは分からない、紆余曲折をうかがい知ることができる記録です。

 現在これらの問題は昇華され、森林環境科・普通科それぞれが魅力的な学科を目指しながら、町内に一つの高等学校として、個々の進路選択に幅広く対応できる学校になっています。

IMG_7310

 この写真は、昨年度(令和6年度)11月に行われた、「農業クラブ第2回各種発表校内大会」の時のものです。左側に写っている生徒たちは普通科の生徒です。農業クラブ校内発表会の様子を普通科生徒も傍聴し、農業科(森林環境科)の生徒の発表の仕方を勉強したり、地域の農業・林業に関する課題や取組を知ったりする機会になっています。
 また、普通科の総合的な探究の時間「くまたん」に、専門性を生かして農業科の教員が指導を行なったりと横断的な学習もできています。

 さらに、森林環境科で大学進学を希望する生徒が、英語・数学の普通科の授業を受け、基礎学力向上に努めたりもしています。

 このように、普通科・森林環境科それぞれが特性を出し合いながら「融和」し、学校の魅力を高めているのが今の上高なのです。

上高今昔57(生徒会今昔)

2025年9月30日 15時49分
上高今昔

 今年度も生徒会立候補者の立会演説会が9月にあり、即日選挙が行われました。選挙は、主権者教育の観点から、実際の選挙で使用されている機材を久万高原町からお借りして実施しました。10月から新体制での生徒会活動が始まります。

IMG_3179 IMG_3199

 さて、本校に生徒会が発足したのは昭和25年のことです。その年の4月21日生徒総会で、生徒会規約が満場一致で可決しました。4月28日には初代会長に普通科3年の小倉敦男さんが選ばれ、その後生徒会本部諸役員、専門委員も順次選出されて、生徒会活動は順調にスタートしました。初期の生徒会活動の様子については、『二十年史』に詳しく書かれてあります。

教科外活動体制が整えられるとともに、熱意と見識を備えた教員の適切な指導が浸透し、そのうえ、生徒がそれ程進学・就職の問題に心奪われなかった時代であったこと、小学区制に守られて本校に集った上浮穴郡の俊秀生徒が生徒諸活動のリーダーとして活躍したことなどの好条件に恵まれて生徒諸活動はめざましいものがあった。学校・生徒会諸活動はすべて生徒の立案・計画のもとに進められ、教員は文字どおり顧問としてサジェストするにとどまったが、「校内には開拓精神がみなぎり、生徒会活動は盛況を極め」(「やまなみ」六号、小さな歴史)、愛媛新聞はこれをたびたび報道したから「本校生徒会は県下でも指折りの生徒会として各方面から注目を浴び」(上高新聞二七号、生徒会を語る座談会)、「上高生徒会を見習え」という声が郡内中・小学校で起こった程であった。(『二十年史』P60)

 この記述を見ると、かなり活発な活動が行われていたようで、「すべて生徒の立案・計画のもとに進められ」ていたというから驚きです。ところが、時代の変化、教育環境の変化によって、すぐにその活動に陰りが見え始めたようです。

(昭和)二十七年度以降年を追って学校は教科指導を強化し、生徒は卒業後の進路に不安を増してきて、教師・生徒ともに、教科外活動の時間と場、教科外活動に対する意欲と情熱を殺がれることが多くなった。そのため昭和二八年一一月、改選を前にした二七年度生徒会役員は「生徒会を語る」座談会を開いて右の対策を語り合ったが、席上司会の広報委員長は「今や本校生徒会は県下でも指折りの生徒会として各方面から注目を浴びています。ところが最近になって生徒会活動は各会員の協力不足という問題をめぐってかなり難航の状態にある。」(上高新聞二七号)と述べ、副会長は生徒会に「学校側は無関心である」、役員一致して「全体的に見て一部の先生を除いて他の先生は無関心だ。」と指摘している。(『二十年史』P73)

 『二十年史』には、昭和25年から35年まで、生徒会執行部を務められた方の一覧表も掲載されています。

スクリーンショット 2025-09-30 155941スクリーンショット 2025-09-30 155859

    これを見ると、会長は男子、副会長の一人目も男子、二人目は女子を、そして運動総長は男子といった風に、ジェンダーバイアスが働いているように見えます。近年上高では女子の生徒会長が続いていますが、別にそこで性別を意識する人はいません。まさにジェンダーレスという考え方のスタイルが浸透したのを実感する次第です。  

 さて、今年度の、重点努力目標は「共に創ろう誇れるかみこう―自主自律と進取の精神を身に付けた上高生の育成を目指して―」です。新生徒会にも、元メンバー同様、そして初期の生徒会のように、「開拓精神」みなぎる挑戦を期待しています。

上高今昔56(「星天寮」の完成)

2025年9月19日 11時36分
上高今昔

 上高今昔4および上高今昔17に、既に寮・寄宿舎のことが書かれてあります。

 全国募集が始まる前、もっと言えば上浮穴農林学校開校当時から、本校にとって寮・寄宿舎は、交通も未発達な中、広域な範囲出身の生徒が本校で学ぶために、欠かせない存在だったのです。初期の様子は、「二十年史」(P32)に詳しく書かれてあります。

生徒の半数近くは寄宿生であったが、校舎その他主要建物さえ遅れに遅れて竣工する状態であったから、男子は元夏秋蚕飼育所養蚕室(アラマ実習地)が仮寄宿舎になり、傷んだ障子やガラス戸、すき間の多い壁、腰板から洩れてくる陽光や寒風、冷気と闘いながら不便に耐えた。昭和20年3月、未完成の校内寄宿舎誠和寮に約50名移転したが、より多くの者がここに残り22,23年度に及んだ。誠和寮も全く粗末なつくりで、その内部設備は全く粗悪で、畳のかわりにムシロを使用、障子には髪も張ってなかったという。なお、この寮は昭和23年度に改造され、昭和34年頃までに利用された。

18年度女子部が開設され多数の寄宿舎生がいたが、男子同様仮寄宿曙町公会堂(現財務事務所)、菅生下寺、夏秋蚕飼育所と転々あるいは分散寄宿して不便をしのいでいた。これをみかねた新谷善三郎が氏の養蚕室を寄贈して下さり、昭和19年10月この改造工事がなって女子生徒の大半が移転した。昭和38年9月まで使用の女子寮、大和寮がそれである。なお、残りの女子生徒は昭和23年ころまで夏秋蚕飼育所寄宿舎にとどまった。

 初期の寄宿生の暮らしは非常に厳しく、粗末で快適とは言い難い生活を強いられていたようです。昭和16年入学の1期生である松本光夫さんが蚕飼育所での思い出を「五十年誌」に書いておられます。すごくいい文章で心動かされたので転載させていただきます。

スクリーンショット 2025-09-19 113519

 現在使用されているのは町営「星天寮」。令和2年度から全国募集で集まってきた生徒を中心に受け入れています。

次の写真は令和元年「星天寮」工事中の様子です。

工事中(基礎) 工事中(外観1) 工事中(内部2)

 令和7年9月現在、29名(定員30名)の生徒がここで寝食を共にしています。親元を離れ何かと不安もあるかと思いますが、清潔で快適な環境で生活できています。また、寮母さんをはじめとするスタッフのみなさんが支えてくれています。

上高今昔55(校内にある扁額)

2025年9月18日 17時08分

まずは校長室にある扁額です。

スクリーンショット 2025-09-18 134246

この扁額については、「上高今昔8」で説明してあるのでそちらをご覧ください。

 校長室にあるもう一枚の扁額です。

スクリーンショット 2025-09-18 134313

「成 必 則 勤」(勤むれば則ち必ず成る)皆川治広 書

まじめに勤めればことが成し遂げられるといった意味でしょう。「上浮穴農林学校」に贈られたものであり、「勤勉」の必要性を説いた言葉でしょうか。 皆川治広さんは、調べてみると松山市出身の方で、戦前戦後と法曹関係で全国的に活躍された方です。なぜこの方が本校のために書いてくれたのか、つながりは不明です。

IMG_20250918_113545

 「如 一 行 想」(宇都宮雅臣 書)です。第一教棟玄関下駄箱上に掛けられています。詳しくは「上高今昔39(部活動4 弓道部)をご覧ください。

IMG_20250918_113057

 「読 熟 思 静」(宇都宮雅臣 書)です。図書館の壁に掛かっています。「静思熟読」、じっくり本を読み思索することの大切さを説いているのだと思います。「五十年誌」には「語熟思静」と表記されていますが、「語」ではなく「読」と読めます。宇都宮雅臣さんは、本校の商業教員だった方で、「四十年誌」に掲載されている職員名簿の中にその名があります。

IMG_20250918_113739

 「礼法 百錬 心技」(稲田晃典 書)です。格技場にあります。稲田晃典さんも「四十年誌」の職員名簿に名前があります。芸術(書道)の教員だった方です。剣道・柔道にふさわしい言葉ではないでしょうか。

IMG_20250918_114012

 最後に船田一雄さん書の「知今堂」です。知今堂の東側の壁に掛かっています。「知今堂」と船田さんの関係、船田さんの為人は、「上高今昔35」をお読みください。築八十年の木造の講堂で、県下でも現役の建物は珍しいということでしたが、今年度夏休みから使用を見合わせています。安全を確保し、何とか再び使用できるようになることを願います。

このように、校内には六つの扁額が存在しています。

上高今昔54(二人の功労者)

2025年9月18日 11時13分
上高今昔

 本校の前身である「上浮穴農林学校」創立に際し、そして創立後、「上浮穴高校」になってからも、軌道に乗るまで物心両面からお支えいただいた二人の功労者のお写真が図書館にあります。

IMG_20250918_084234  IMG_20250918_084258

 新谷善三郎さんと船田一雄さんです。お二人の功績については既に「上高今昔3 新谷善三郎翁」「上高今昔35 知今堂」に記してありますので、振り返ってお読みください。

 「二十年史」(昭和40年発行)には、前PTA会長として新谷さんのお言葉が掲載されています。上浮穴高校にどんな思いを持って関わっていたのかをうかがい知ることができますので、一部を転載いたします。

四十年の歳月を思う

前PTA会長 新谷善三郎

本校の生みかつ育ての親は郡民であったことも忘れてはならないことである。昭和十年から六年の間、私がリーダーシップを取って進めた創設運動は、郡内指導層の諸子はもとより一般郡民と打って一丸となり、郡民一人一人が応分の力を持ち寄り、繋ぎ合わせ、練り合わせて推し進めたのである。これなしに、貧しい山村に中等学校(※現在の高校)創設は至難であったと思う。開校後の二十四年も、程度の差はあっても創設期と変わらない。昭和十七年八月の本館教棟の竣工から昭和三十八年七月完成の体育館建設まで、数々の事業に協力した郡民の姿を思い起こせば明らかである。講堂、寄宿舎、学校林、西校舎、林業科開設および中校舎、運動場拡張と数え上げれば際限のない施設、設備は、みな郡民の汗と油の結晶なのだと言っても過言ではない。

しかし、郡民の苦労は稔り、本校を巣立って社会に活躍する卒業生は今や三千有百を数える。郡内にとどまった者は上浮穴の産業・社会・文化を担う中堅層として、また既に指導者として活躍しつつある。大正末年に同志と夢見たことが、このように、今や私の眼前に展開しつつあるを見て、私は無上の喜びにひたる。そして祈る。成長して行く昭和の若者たちが、我々明治・大正の世代の、持てる力をふりしぼって生み育てた本校を礎石として、我々のよくなしえなかった上浮穴の一段の発展を実現させてくれることを。

 郡に高校をという郡民の切実な願いからこの高校が誕生し、郡民一丸となって施設・設備の充実に協力していったことがうかがえます。また、未来の上高の発展を切に願う新谷さんの強い気持ちが、執筆から60年を隔てた今でも伝わってきます。

上高今昔53(給食の導入)

2025年9月17日 10時23分
上高今昔

 本校に全国募集の生徒が初めて入学してきた令和2年度から、給食は寮生限定で提供され、会議室を利用していました。

 寮生以外の生徒への給食提供については、保護者から要望があり、久万高原町としても生徒確保のメリットがあることから導入に踏み切りました。令和3年9月から町教育委員会と学校間で話し合いが持たれ、令和4年9月の提供開始が目指されました。学校給食配送車受け入れ予定場所を検討した結果、本館西側の通用門が妥当だろうということになり、工事が行われました。

本館西側通用門 IMG_1592

1枚目の写真が、工事前に存在した本館西側通用門の様子です。もともとは、普通科の生徒が校舎への出入りをしていた場所です。現在は、普通科の生徒も森林環境科の生徒も、図書館に通じる本館東側通用門から出入りしていますが、令和3年度までは別々でした。2枚目の写真は、本館西側通用門を給食受け入れ場所に改造した写真です。トラックの荷台から転がして、直接給食のコンテナを給食室に降ろせるように高さを上げ、シャッターを設置しました。

 令和4年7月に、衛生面や、実務面のことなどが話し合われ、令和4年9月12日に一般生徒への初の給食が提供される運びとなりました。

IMG_1517 IMG_1579

 給食は、今ではすっかり学校の中に溶け込み、希望制で70名程度の生徒が利用していますが、導入までには様々な準備が行われていたのですね。

上高今昔52(ドイツ視察セミナー)

2025年9月13日 04時28分
上高今昔

 上浮穴高等学校振興対策協議会の事業の一つに「ドイツ視察セミナー」があります。上浮穴高校の存続と魅力化をはかるためにこの事業は始まりました。第1回は、平成30年度です。生徒10名、引率教員3名の規模で行われました。

 なぜ、ドイツなのか。それはドイツが「森林先進国」であり、森林面積90%を有する久万高原町にとって、町の活性化のヒントが得られると考えたからです。森という地域資源をいかに活用していけばいいのか、森と人との関わり、環境保護、さらには街作りや、人々の生き方に至るまで、このセミナーで多くのこと視察し、そこでの経験を持ち帰り、今の久万高原町を新たな目で見直し、今後のあるべき姿に対して提言を行うという難しい役割が参加者には求められます。

 第2回は、平成31(令和元年)度ですが、令和2年度から4年度は中止となりました。新型コロナウィルスの影響です。この年代に高校生活を過ごし、セミナーに行く機会を失った生徒さんには申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 セミナーは令和5年度に再開され、今年度(令和7年度)で5回目の実施となりました。 

 さて、第1回から、このセミナーに欠かせない現地スタッフの方がいます。Arch joint vision(アーチ•ジョイント•ヴィジョン)社の池田憲昭さんです。この方は、「ドイツ」「池田」で検索すると真っ先に検索できるような方で、日本人という基盤を持ちながら、大学卒業後ドイツに30年間在住し、ドイツの森のこと、自然保護、街作りのことに精通されています。穏やかな人柄で、ユーモアもあり頼りになる方です。会社のブログから池田さんのプロフィールを転載させていただきます。

(プロフィール) 1972年長崎県生まれ 森林・環境コンサルタント / 日独通訳・翻訳家 / 文筆家  ドイツ バーデン‐ヴュルテンベルク(BW)州 ヴァルトキルヒ市在住 Arch Joint Vision社(ドイツ) 代表 www.arch-joint-vision.com Smart Sustainable Solutions 社(日本)代表取締役 www.smart-sustainable-solutions.jp ドイツ在住25年以上。ドイツ語学文化(岩手大学)と森林環境学(フライブルク大学)の学識をベースに、2003年より、森林、農業、木造建築、再生可能エネルギー、地域マネージメントなどをテーマに、欧州視察セミナーのコーディネートやコンサルティング、日独事業のサポート、文筆活動を行う。異文化コミュニケーションセミナーのトレーナーとしても、日独企業の良好な共同作業を支援。2010年より、ドイツの森林官らと、日本の森林事業のサポートとコンサルティングを行い、2023年より、「公共善エコノミー(Economy for Common Good)」のメンバーとして中欧と日本の繋ぎ役を務めている。  (Arch Joint Vision社 ブログより)  

 もう一人、このセミナーに欠かせない方がいます。森林官(フォレスター)、ミヒャエル・ランゲさんです。

 ランゲさんは、ドイツの森の道作り(基幹道)のことや、多様性を生み出す森作りのことを分かりやすく教えてくれます。

 さて、ドイツのGDP(国内総生産)は、IMF(国際通貨基金)のデータによると約4兆6,585億ドル(約4.65兆米ドル)で、アメリカ、中国に次ぐ世界第3位です。2023年に日本を追い抜き、世界第3位になりました。そうはいっても実質の豊かさでは日本のほうが上ではという意識を私は持っていましたが、実際に行くとそうではないことに気付かされます。日本は長い不況の間に、日本より人口の少ないドイツに大きく溝を開けられていました。森との関わり方だけではなく、人の働き方や、生き方まで、この先の日本のヒントになることが多くありました。

 平成30年(2018年)1ユーロ130円程度であったものが、今や1ユーロ170円になって、円が弱くなっています。その関係で、ドイツ(ヨーロッパ諸国)へ行く日本人観光客は激減し、本校からの参加生徒定員も予算の都合上6〜5名程度に減っていますが、学ぶべきことはたくさんあります。長期的な視点で見れば上高のためだけではなく、久万高原町に還元できる事業であり、この取組が持続していくことを祈ります。

 報告会は毎年12月頃に、産業文化会館をお借りし、久万中学校・美川中学校の生徒のみなさんにも来ていただき、総勢300名程度で盛大に行われます。今年度も予定通り行います。誰でも参加自由ですので是非ご参加ください!(今年度令和7年は12月15日(月)に実施します。このHPから申込できます)

上高今昔51(上浮穴高等学校振興対策協議会の発足と現在)

2025年9月1日 16時16分
上高今昔

 愛媛県の高校生の数は、1990年(平成2年)をピークに減少し、平成2年(1990年)と令和3年(2021年)を比較すると、半分以下になっていることが分かります(愛媛県教育委員会データによる)。

Screenshot 2025-09-02 04.06.10

 これに伴い、県は平成16年度から平成25年度まで段階的に「県立学校再編整備計画」を立て、県立学校の定員の見直しや、分校化について検討してきました。その中で、高等学校の適正規模を「1学年3学級~8学級を基本」とし、この基準を下回る学校は原則として「募集停止」を検討するということになっていました。

 しかしながら、これでは人口減少が著しい地域において、地域で唯一の高校が廃校の危機を迎えることになります。そこで「再編整備基準(チャレンジシステム)」として「入学生が60人以下の状況が3年続き、その後も増える見込みがない場合は、1学科2学級の学校は1学級の定員を30人、2学科2学級の学校は1学科の定員を30人とし、1学年の定員を60人とした上で、本校として存続させる。」という特例の基準を新たに提示しました。

 この基準をもとに、久万高原町に唯一の高校である上高は、平成21年度から募集定員が「普通科30名、森林環境科30名」となり、小規模ながらも本校として存続していける可能性が残されました。

 「上高今昔49生徒数今昔」で示したとおり、上浮穴高校の生徒数減少は愛媛県全体に先行する形で、昭和50年代後半から急激に進んでおり、生徒数確保は喫緊の課題でした。同窓会もそれを危惧し、平成9年10月には同窓会主催で「上浮穴高校活性化対策会議」が開催され、久万高原町にも働きかけを行い、平成11年には久万高原町が主催で「上浮穴高等学校振興対策協議会」が設立されました。

 「上浮穴高等学校振興対策協議会」で議論が重ねられた結果、18年度からは「上浮穴高等学校教育振興補助金要領(生徒数確保に係る通学費等補助)」が適用され、平成21年度からは「久万高原町ふるさと奨学生に対する奨学金支給条例」が適用されることとなります。バス等で遠方から通ってくる生徒の交通費の援助(7割以内負担)と、町内から入学してくれた生徒への奨学金支給(月1万円の支給 選考あり)を久万高原町にしていただけることになりました。さらに、入学生全員に入学支度金7万円の支給、海外研修費用の9割の補助をしていただくなど、久万高原町には恩を返しきれないほどの支援を受けているのです。

 このように見てくると、県でチャレンジシステムという基準が設けられたこと、同窓会のメンバーに危機感を持って動いていただいたこと、そしていち早く町に手厚い支援をしていただいたおかげで、上高は存続し、現在生徒募集に全力で力を注ぐことができているというのが分かります。

 令和5年度から、本校は、「魅力化推進校」として、その基準が適用されていますが、「入学者が3年連続30人以下」で、今後も増える見込みがないという判断をされると、学校はなくなってしまいます。毎年31人以上という最低の数字は常に意識し、しかし存続だけに重きを置くのではなく、地元、町外、県外出身者が集い、他の学校にはない魅力ある教育を提供できる場を目指していきます。県の施策、町の施策、学校の自助努力がうまくかみ合うことで、自ずと上高は存続し、町にも貢献できるのではないかと思っています。

上高今昔50(部活動9 郷土芸能部)

2025年8月25日 12時03分
上高今昔

 本校の文化部の一つに、「郷土芸能部」があります。

 調べてみると「郷土芸能部」は、昭和60年度愛好会としてスタートしました。それから平成16年度までの20年間愛好会として存在し、一度途絶えます。ところが、平成21年度に再度愛好会として復活し、平成24年度に晴れて部活動に昇格しています。

 毎年、三島神社で行われる久万郷全体の田畑の五穀豊穣を願った「夏祭り」では篝火の中で「久万山五神太鼓」が演じられ、迫力ある演技と幻想的な雰囲気で観衆を魅了します。この「久万山五神太鼓」を練習し、さまざまな機会に披露するのが「郷土芸能部」の活動です。

 最近では、高文祭のオープニング(令和3年度)や、農業クラブ四国大会(令和6年度)のアトラクションとして、郷土芸能部のメンバーが「久万山五神太鼓」を演じました。また毎年本校の体育祭でも「久万山五神太鼓」を午後の一番目に演じ、観客を楽しませています。

スクリーンショット 2025-08-25 081010 スクリーンショット 2025-08-25 081043 

「久万小田郷総鎮守三島神社」HPに五神太鼓の由来が書かれてあります。

  ときは群雄割拠の戦国時代の(約400年前)、ところは、伊豫・土佐両国の国境(現在の久万郷)。久万山大除城主は大野直昌は、土佐方に包囲され滅亡の危機に陥った。その時、直昌公は神のご加護を得んと、守護神・ダイバの仮面を小姓衆に付けさせ、太鼓・樽を一斉に打ち鳴らし神に奉じた。願い、祈りは天に通じ、空にわかにかき曇り時ならぬ夕立襲来を呼んだ。この機に乗じ久万山方は、土佐方の一瞬の間隙をつき一気に打ち出し窮地を脱したと伝えられている。

 爾来、直昌公の氏神に対する感謝・崇拝の年は益々厚く、魔除先達の神としてダイバの仮面をつけ太鼓を打ち鳴らし、久万山五神の神々に感謝のまことを捧げたと伝えられている。尚、打ち方は、柔・鋭・激 すなわち柔らかく、鋭く、力強くをモットーに各人おのおのの自由演技の真髄を等して、見栄を切り、強く激しく打ち切る所がこの太鼓の最大の見せ場となっている。 (久万小田郷総鎮守三島神社 HPより)

 「ダイバの仮面」と出てきますが、「ダイバ」「ダイバン」とは中四国地方で鬼のことを意味するようです。顔にぴったり合った鬼の面は迫力がありますね。

スクリーンショット 2025-08-25 081120

 また、『久万町誌 補訂版続編』(平成16年7月)には、次のように書かれています。

 久万山五神は、空・風・火・水・埴(土)の霊神である。昭和五九年に誕生し、毎年三島神社の祭礼に奉納されている。久万小学校、久万中学校、上浮穴高校に五神太鼓クラブが置かれ、運動会などの学校行事で演奏された時期もあったが、諸般の事情で現在は小学生が神社で練習をしている状況である。

 てっきり、戦国時代から継承されてきた伝統文化だと思いこんでいましたが、今演じている形の歴史は案外浅く、「昭和五九年に誕生し」とあるので、まだ四十年ほどしか経っていません。昭和60年度に本校で愛好会ができたのもこれを若い世代で普及させようという動きであったことが分かります。

 部活動としては歴史の浅い「郷土芸能部」ですが、是非この部が地域文化継承の場として末永く続いていくことを願います。保存会の方や卒業生の方にも時々ご協力いただいております。ありがとうございます。

 現在は産業文化会館を借りて、毎週木曜日に練習を行っています。