上高今昔
本校の創立は、本校の前身である「上浮穴農林学校」が甲種農林学校として設立が認可された昭和15年(1940年)をゼロとして考えるので、50周年は1990年、100周年は2040年と数えやすくなっています。2030年に90周年を迎えることになります。
これまで、節目ごとに記念誌が発行され、上高の歩みを記してきました。
昭和35(1960) 20周年 『二十年史』(編集作業が遅れて発行は昭和40年、昭和39年までのことを記す)
昭和45(1970) 30周年 記念誌なし ※校長・教頭の急逝のため
昭和50(1975) 35周年 『山なみ 記念特集号』(昭和49年11月発行)※新本館落成を記念して
昭和55(1980) 40周年 『四十年誌』
平成2(1990) 50周年 『五十年誌』
平成12(2000) 60周年 『六十年誌』
平成22(2010) 70周年 『七十年誌』
令和2(2020) 80周年 『八十年誌』
基本的に10年ごとに記念誌が発行されてきましたが、35周年には本館校舎の新築を祝い、記念特集号が発行されています(上高今昔62参照)。
特に読み応えがあるのは最初に出された『二十年史』(B5版)で、創成期から昭和39年にいたる歴史を一歩一歩詳細に記しています。発行がかなり遅れた(5年遅れ)のも仕方がないという気がします。
30周年は管理職二人の急逝という事情もありますが、『二十年史』が詳細かつ、記述内容が昭和39年にまで及んでいることから、ほとんど書き足すものがなかったのではないでしょうか。
そして『四十年誌』(A4版)は、当時生徒であった方々の声が多く収録されているのが特徴です(上高今昔46参照)。

『五十年誌』は、大きな節目の年ということで、卒業アルバム並みの体裁で作られています。写真が多く掲載されているのが特徴です。

その後発行された『六十年誌』『七十年誌』『八十年誌』は、基本的に『五十年誌』をベースにしながら、前に出された記念誌から歩んだ十年間の歴史を書き足す形で作られています。『八十年誌』だと、現在の新体育館落成の様子や、星天寮新築の様子が中心になっています。

さて、5年後に90周年を迎える上高ですが、80周年(2020年)から激動の時代を迎えています。コロナ禍の中、マスク着用で続けられた教育活動は多難を極めましたが、今までの当たり前を見直し、新しい学校の形を考えさせてくれる契機になりました。令和2年度から始まった全国募集は、初期には産みの苦しみがありましたが、今では寮もほぼ満員の状態です。普通科では「くまたん」(総合的な探究の時間)も始まりました。また、農業クラブの活動では、全国大会で入賞する生徒も複数出てきて(上高今昔60参照)、「くまもるず」というチームの活躍もあります。さらには「きらくま」という学校外に活動の拠点を移す新しいスタイルのチームにも目が離せません。今年度は内閣総理大臣表彰に植樹祭カウントダウンボードの作製と、既に記す内容は盛りだくさんですが、残り5年も伝統の上に、さらなる新たな歴史を刻み、現状維持ではなく、飛躍の90周年にしたいものです。
上高今昔
図書館2Fで『山なみ』の5号(昭和27年2月発行)から25号(昭和48年2月発行)を見つけました。うち、8号と9号は見当たりませんでしたが、実際に手に取ることができて感動です!第5号が発行された昭和27年といえば、戦後7年、この頃高校生であった方は、現在90歳前半の方々です。

表紙も色とりどりできれいです。
さて、『山なみ』については、「上高今昔48(文芸部)」で触れています。1号から4号まではザラ紙ガリ版刷で、70年以上前のものなのでもはや残っていないようです。5号からは、きちんと印刷会社に依頼し、製本されていたので図書館2Fに残存していました。
見開いて最初と最後のページには、久万町の商店等の広告が掲載されていて、スポンサーを付けて発行していたのが分かります。

内容は、俳句・短歌の韻文から詩や評論、読後感などで、まさに文芸部が発行する文芸雑誌といった感じです。
この『山なみ』の発行は25号(昭和48年2月)まで続けられています。翌年出された『山なみ 記念特集号』(昭和49年11月発行)は、文芸部の活動とはまったく無縁で、学校が新校舎落成を記念して発行したものです。「山なみ」という名前だけを拝借した「35年誌」です。
そして、昭和46年度からは、生徒会誌『山麓』も発行され始めます。これは今も続いているクラス紹介や、3年生の残す言葉、その年度の学校行事や部の活動の様子が掲載されているものですが、単独で雑誌を作るのが難しくなった文芸部は、創作した俳句や詩を、この生徒会誌『山麓』に載せることにしたようです。
「上高今昔48」の最後に、生徒会誌『山麓』6号(昭和51年度)の表紙になぜか「山なみ26号」という表記があることを記しましたが、これは当時の文芸部にとっては、昭和48年2月発行以来中断されていた『山なみ』25号の続刊という意味があったのです。
上高今昔
1974年(昭和49年)9月、現在の本館が完成します。それまで使っていた木造の旧校舎は役割を終え、取り壊されます。
今回、旧校舎の建設途中の写真を図書館2Fで見つけました。昭和16年~17年頃に撮影されたと思われます。

階段に人が連なり、下においてある瓦をリレー形式で上げている様子が写っています。
『山なみ』(本館落成創立35周年)記念特集号には、この時の様子をうかがい知ることができる吉田さんの文章が載っています。

瓦を上げているのは、なんと吉田さんたち1期生で、学校創立時期の手作り感が伝わってきます。
この木造校舎は、昭和49年9月まで、32年間使われていましたが、多湿の久万高原町では老朽化が早く進みます。また、増加した生徒数に対応するため、鉄筋の新本館が校地を拡大して建てられ今に至ります。
本館落成のタイミングで出された『山なみ』(本館落成創立35周年)記念特集号は、新本館(現在の校舎)落成を祝う記念誌ではありますが、旧校舎を懐かしみ、別れを惜しむ気持ちが全体にあふれています。

上高今昔
昭和23年に本校では普通科が誕生し、昭和20年後半あたりから、教科指導を強化しようという熱がだんだん強まっていったようです。
『二十年史』(P64)にも「二七年度以降(中略)戦前・戦後の教育の空白、戦後の社会の混乱、新教育の一部欠損から生じた基礎学力の低下を防ぎ、訓育教育の混乱を是正しつ、かつ、年々高まる大学・就職試験の競争に備えて教科指導を強化しよう、という学校の意図が強まって二十六年度までとはかなり違った動きがみられた」と書かれてあります。
27年度からどのような取組が行われたのかを『二十年史』をもとに、年譜的にまとめてみると次のようになります。
昭和27年度
・新入生招集日に英語テストを実施、その成績を参考にして一年生をA・B・Cの三クラスに分けた。(普通科のみ)
・新入生からブランク(三箇年で九〇単位取得できるが、卒業認定に必要な単位は85単位のブランクが認められていた)を廃止。
・五日制授業(土曜日はクラブ活動、生徒集会、ロングホームをあてて教科をしない)を廃止。土曜日も教科の授業を行う。
・全校生徒を対象に当用漢字の書取テストを実施。
・三年のルーム編成は生徒の意見を尊重し、進学対象のルームを編成。
・課外授業を放課後毎日実施。
・進学適性・各教科の模擬テストを頻繁に実施。
昭和28年度
・新入生招集日に英語に加え、数学・国語のテストも行い、この結果をもとに、普通科を、家事・家庭従事者をA、就職希望者をB、大学進学希望者をCとしてクラス分けを行った。
・二、三年生も同時にABCで編成替えをおこなった。
・これまで週にクラブ活動二時間、生徒集会一時間の合計三時間とっていたが、両方合わせて一時間とし、浮いた二時間を教科に割り当てた。
・修学旅行を二年生修了直後に実施した。(それまでは三年生の開校日に実施)
・放課後進学・就職コースの課外授業を行うほかに早朝課外も一部の教科で始めた。
昭和29年度
・進学コース全員、就職コースの希望者を対象に、正規授業開始前、八〇分間の課外を全面的にはじめる。早朝八〇分の課外、続いて六時間の正規授業を受け、さらに放課後五時ごろまで課外授業、これに夏・冬期休暇をあわせて三週間の課外授業を行うといった強力な体制を確立させる。
昭和30年度
・諸行事を省略または簡略化、ないしは実施時期に考慮が払われた。学習効率が最も上がる二学期に学校行事を極力避け、クラスマッチは一学期に集約、学校祭と運動会を合併して行った。
かなり過激に、教科指導の強化が図られたのが分かります。特に進学コースの生徒さんたちは、今では考えられないハードな日程を送っていたことが分かります。正規授業の80分前とあるので、早朝7時頃から課外を行っていたと思われます。
さて、その成果はどのように現れたのでしょう。
『二十年史』には、「結果は必ずしも満足すべきものではなかった」と書かれてあります。そして、昭和23年度から昭和35年度までの大学合格者の表が掲載してあるので、転載します。

皮肉なことに、愛媛大学合格者の数は、教科指導の強化を本格的に始めた前年の昭和26年度がピークであり、昭和28年度に12名の合格者が出ていますが、その後は停滞します。ただ、難関大学である「京都大学」「大阪大学」「九州大学」「防衛大学」等への合格が出ていて、一概に数で効果をはかるのは間違っているのかもしれません。また思うように成果がでなかったのは、全国的な進学熱で、各大学の難易度がアップしたという原因も考えられます。この後昭和40年代にかけて第1次ベビーブームの世代が大学進学の年齢に達する時代で、競争倍率の高まりもあったかもしれません。いずれにしても、時代に流されながら、上高はこの時代、教科の力を付けるためにとにかく時間を確保したのでした。
現在、普通科の中に文理コースがあり、これが大学進学に対応しています。本人の希望を最優先し、それに応える個に応じたきめ細やかな教育を志しています。また、多様な入試に対応できるように、総合的な探求の時間にも力を入れ、課題発見や課題解決能力、協働力など様々な力を養っています。
今は大学全入時代になり、選ばなければ誰でも大学に行ける時代です。また選抜方法も多様化して、学力だけが全てではありませんが、ここに行きたいという目標を定めたら、今の時代だからこそ、それに見合う努力と実力を身に着けてから進学してほしいと願います。進学のその先に真の目標はあります。
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学校農業クラブ全国大会は、全国の農業高校生(農業クラブ員)が日頃の学習やプロジェクト活動の成果を発表し、知識や技術を競い合う大会で、「農業高校の甲子園」とも呼ばれています。今年度(令和7年度)は、間もなく(10月下旬)、西関東で開催されます。
今年度、森林環境科3年福田晴真さんが、愛媛県大会・四国大会、意見発表の部(Ⅱ類)で「最優秀」に輝き、全国大会に出場します。意見発表の部で本校から全国大会に出場するのは令和元年の池田隆之介さん以来です。全国大会でも、すばらしい発表を期待しています。

さて、その全国大会の競技の中の一つに、「農業鑑定競技(森林の部)」があります。林業・森林科学に関する知識・技術の成果を競うもので、日本一になるためには、樹木名、木材、機械・機具、病害虫、測量、林産物などに関する高度な知識が必要です。毎年1名学校から全国大会に出場可能で、今年度は校内の模擬テストで好成績を収めた2年井上和さんが出場します。健闘を祈っています。
ところで、一昨年、この農業鑑定競技(森林の部)で、なんと日本一に輝いた本校生徒がいるのです。当時森林環境科3年菅家光希さんです。

このことは当時、愛媛新聞にも大きく取り上げられました。菅家さんは2年生の時にも出場し、「優秀」(参加者の上位3分の1)を受賞していますが、そこに満足せず、さらに高みを目指し、地道な努力を続け、日本一になりました。現在菅家さんは、北海道の林業関係の会社に就職し、元気に頑張っています。学校関係者にも時々連絡をくれます。将来、日本の林業に影響を与えるような大人物に成長してほしいと願います。
記念誌などで本校の「活動の記録」をさかのぼっていくと、今から50年以上前の昭和47年、菅家さんと同じ競技で日本一に輝いている方を見つけました。漆田勝彦さんという方です。今のところ名前以外の情報はないのですが、昔も今もずば抜けて優れた生徒さんが突然出現するのが上高です。さらに、全国大会が行われた場所が非常に運命的です。次の表は、「日本学校農業クラブ連盟」HPから転載させていただきました。

漆田勝彦さんが日本一に輝いた昭和47年(1972)第23回全国大会は、熊本県で開催されていて、51年を隔て、菅家さんが日本一に輝いた令和5年(2023) 第74回大会も熊本開催でした。何か不思議なつながりを感じます。
今回意見発表に出場する福田さんも菅家さんにあこがれ、林業について、また林業以外にもいろいろ興味をもって3年間勉強してきました。ラインで菅家さんとつながり、相談にも乗ってもらっているとのことです。先輩から後輩に、見えない伝統は受け継がれ、歴史は作られていきます。
(追記)令和7年度全国大会(西関東)
意見発表の部(Ⅱ類) 森林環境科3年 福田晴真さん (優秀)
農業鑑定競技(森林の部)森林環境科2年 井上 和さん (優秀)
上高今昔
次の表は、昭和55年の生徒の出身地と通学方法を示したものです。

全体的に見て、郡内の生徒も含めバス通学の多さ(63%)が際立っています。バス通学によって、放課後の部活動等が時間の制約を受けていたのは容易に想像がつきます。
それにしても郡内出身生徒の数も多く、うらやましい限りです。現在は、郡内(町内)のすべての中学生の数を合わせても各学年40名~30名代であり、郡外(町外)からの生徒の入学に頼らざるを得ません。
さて、本校は、一般財団法人地域・教育魅力化プラットフォームが主催している、「地域みらい留学」の受け入れ高校に名乗りを上げ、令和2年度から森林環境科において学区外(県外)生徒の受け入れを始めました。そのために、久万高原町に立派な寮(「星天寮」)を建設していただき、教職員による舎監制度を確立させ、寮生限定の給食制度も導入しました。当初はコロナ禍の真っ最中で、多難を極めましたが、毎年順調に留学生が入学し、令和5年度からは普通科でも学区外の生徒を受け入れるようになりました。現在では30名定員の寮がいっぱいになるのではといううれしい悲鳴も出ていて、シェアハウスなど新しい住環境の構築をして、さらに受け入れ態勢を万全にしているところです。
「地域みらい留学」とは、地方の県立高校へ、県外(主に都市部)の中学生が進学をする制度で、少子化や過疎化が進む地方の公立高校の魅力向上と、都市部の生徒への新たな教育選択肢の提供を目的として2018年に開始されました。「少人数教育による個別最適化」「地域課題解決型学習」「偏差値重視からの脱却」「多様な進路の実現」といったメリットがあり、全国的にも今注目を集め、留学生数も年々増加しています。

(一般財団法人地域・教育魅力化プラットフォ―ムHPより)
愛媛県では12校が受け入れを行っており、9月にはそのうちの9校が独自に集まり、松山で「合同説明会」を実施して、県内の中学生にもその魅力をアピールしました。
8月東京で行われた対面の説明会では、本校に興味を示していただいた方も多く、それが学校見学や、県が主催するバスツアーにもつながっています。

この写真は、今年度の東京での対面説明会の様子です。説明を聞きに来た人の中には、中学3年生だけではなく、中2・中1、中には小学生もいて、改めて関心の高さを実感しました。
さて、本校での留学生受け入れも6年目を迎えました。今年度も県外から9名の県外生徒さんを迎え、「星天寮」もにぎわっています。安定した県外生の入学は、地元からきていただいている、久万中・美川中出身のみなさんにもいい刺激になっていると思います。学校も活性化し、町との交流も活発になっています。近い将来、県外から来ていただいている生徒さんの中で、久万高原町に定住、就職する人が出てくれば、この試みは直接的な地域活性化にもつながると考えています。
近年の県外生徒の受け入れは、子どもの数が減少傾向にある町の高校と、全国的な留学熱が結びついた、国が後押しする事業であり、上高、久万高原町に転機をもたらすこれまでにない大きな変化と言えるのではないでしょうか。
上高今昔
本校は、もともと「農林科」のみの単独制高校でしたが、戦後(昭和23年) 「普通科」も併せ持つ総合制高校に昇格しました。 沿革には「23. 4. 1愛媛県立上浮穴高等学校となる。普通科・農業科設置される。」とあります。地域の子どもたちの多様なニーズに対応する学校に進化し、喜ばしいことのように思われますが、周囲の反応は意外にもそれだけではなかったようです。
『創立50周年記念誌』(平成3年7月発行)の中で、「上高同窓会の歩み」と題して、当時同窓会事務局長隅野正行さん(昭和26年卒業 普通科 第1期生)が、本校に普通科が設置された時の町や同窓会の反応を、詳しく書いておられます。
昭和23年学制改革により(上浮穴農林学校は)普通科を設置した総合制高等学校に昇格し新発足した。この昇格問題については普通科を加えることについて、農林科の単独制にするか、総合制にするか、の問題で学校の中でも地域社会においても意見が分かれ大いに議論された。普通科を設置すれば施設・設備が著しく不備な現状では、普通科・農林科とも充実が果たせず、また実習のない普通科生がいることが農林科経営にも種々の支障が生じる等、様々な理由から総合制反対の声が強く、学校の方針も反対の方向に傾いていった。しかしこの方針も文部省・進駐軍に許容されず、総合制へ方針を変更したのである。
この問題について昭和23年2月に、同窓会臨時総会が開かれ、普通科設置に対する同窓会の立場は反対である、と絶対多数で可決され、直ちに委員を選出し熾烈な反対運動を展開した。結果として国の方針に抗し切れず、また在学生にも多大な迷惑をかける、という理由で涙を呑んで矛を収めたのである。しかし新制高校発足後、学校運営に協力する方針を定めながらも、なお一部で感情のもつれを払拭しきれず、今村完道校長との口論や、普通科教員との融和を欠く点もあり、少なからずトラブルがあった。校内においても普通科生と農業科生との間に鉄拳制裁があり、昭和26年にまで及んだ。私自身、昭和23年度入学の普通科第1期生として3年間鉄拳の最中を過ごし、普通科生と農業科生とのしこりの深さを身をもって体験した一人である。量的に優勢な農業科生には抗し切れず、在学中は両者の融和は図れなかった。卒業後も同窓会に入会せず、昭和27年度発行及び昭和32年度発行の同窓会名簿にその名をとどめていないという不幸な結果も生んでいる。
普通科を設置するにあたり、反対する声が強く、設置後もなかなか「融和が図れなかった」事情が生々しく書かれています。「鉄拳制裁」という穏やかでない言葉も使用されています。学校の沿革だけ見たのでは分からない、紆余曲折をうかがい知ることができる記録です。
現在これらの問題は昇華され、森林環境科・普通科それぞれが魅力的な学科を目指しながら、町内に一つの高等学校として、個々の進路選択に幅広く対応できる学校になっています。

この写真は、昨年度(令和6年度)11月に行われた、「農業クラブ第2回各種発表校内大会」の時のものです。左側に写っている生徒たちは普通科の生徒です。農業クラブ校内発表会の様子を普通科生徒も傍聴し、農業科(森林環境科)の生徒の発表の仕方を勉強したり、地域の農業・林業に関する課題や取組を知ったりする機会になっています。
また、普通科の総合的な探究の時間「くまたん」に、専門性を生かして農業科の教員が指導を行なったりと横断的な学習もできています。
さらに、森林環境科で大学進学を希望する生徒が、英語・数学の普通科の授業を受け、基礎学力向上に努めたりもしています。
このように、普通科・森林環境科それぞれが特性を出し合いながら「融和」し、学校の魅力を高めているのが今の上高なのです。
上高今昔
今年度も生徒会立候補者の立会演説会が9月にあり、即日選挙が行われました。選挙は、主権者教育の観点から、実際の選挙で使用されている機材を久万高原町からお借りして実施しました。10月から新体制での生徒会活動が始まります。

さて、本校に生徒会が発足したのは昭和25年のことです。その年の4月21日生徒総会で、生徒会規約が満場一致で可決しました。4月28日には初代会長に普通科3年の小倉敦男さんが選ばれ、その後生徒会本部諸役員、専門委員も順次選出されて、生徒会活動は順調にスタートしました。初期の生徒会活動の様子については、『二十年史』に詳しく書かれてあります。
教科外活動体制が整えられるとともに、熱意と見識を備えた教員の適切な指導が浸透し、そのうえ、生徒がそれ程進学・就職の問題に心奪われなかった時代であったこと、小学区制に守られて本校に集った上浮穴郡の俊秀生徒が生徒諸活動のリーダーとして活躍したことなどの好条件に恵まれて生徒諸活動はめざましいものがあった。学校・生徒会諸活動はすべて生徒の立案・計画のもとに進められ、教員は文字どおり顧問としてサジェストするにとどまったが、「校内には開拓精神がみなぎり、生徒会活動は盛況を極め」(「やまなみ」六号、小さな歴史)、愛媛新聞はこれをたびたび報道したから「本校生徒会は県下でも指折りの生徒会として各方面から注目を浴び」(上高新聞二七号、生徒会を語る座談会)、「上高生徒会を見習え」という声が郡内中・小学校で起こった程であった。(『二十年史』P60)
この記述を見ると、かなり活発な活動が行われていたようで、「すべて生徒の立案・計画のもとに進められ」ていたというから驚きです。ところが、時代の変化、教育環境の変化によって、すぐにその活動に陰りが見え始めたようです。
(昭和)二十七年度以降年を追って学校は教科指導を強化し、生徒は卒業後の進路に不安を増してきて、教師・生徒ともに、教科外活動の時間と場、教科外活動に対する意欲と情熱を殺がれることが多くなった。そのため昭和二八年一一月、改選を前にした二七年度生徒会役員は「生徒会を語る」座談会を開いて右の対策を語り合ったが、席上司会の広報委員長は「今や本校生徒会は県下でも指折りの生徒会として各方面から注目を浴びています。ところが最近になって生徒会活動は各会員の協力不足という問題をめぐってかなり難航の状態にある。」(上高新聞二七号)と述べ、副会長は生徒会に「学校側は無関心である」、役員一致して「全体的に見て一部の先生を除いて他の先生は無関心だ。」と指摘している。(『二十年史』P73)
『二十年史』には、昭和25年から35年まで、生徒会執行部を務められた方の一覧表も掲載されています。


これを見ると、会長は男子、副会長の一人目も男子、二人目は女子を、そして運動総長は男子といった風に、ジェンダーバイアスが働いているように見えます。近年上高では女子の生徒会長が続いていますが、別にそこで性別を意識する人はいません。まさにジェンダーレスという考え方のスタイルが浸透したのを実感する次第です。
さて、今年度の、重点努力目標は「共に創ろう誇れるかみこう―自主自律と進取の精神を身に付けた上高生の育成を目指して―」です。新生徒会にも、元メンバー同様、そして初期の生徒会のように、「開拓精神」みなぎる挑戦を期待しています。
上高今昔
上高今昔4および上高今昔17に、既に寮・寄宿舎のことが書かれてあります。
全国募集が始まる前、もっと言えば上浮穴農林学校開校当時から、本校にとって寮・寄宿舎は、交通も未発達な中、広域な範囲出身の生徒が本校で学ぶために、欠かせない存在だったのです。初期の様子は、「二十年史」(P32)に詳しく書かれてあります。
生徒の半数近くは寄宿生であったが、校舎その他主要建物さえ遅れに遅れて竣工する状態であったから、男子は元夏秋蚕飼育所養蚕室(アラマ実習地)が仮寄宿舎になり、傷んだ障子やガラス戸、すき間の多い壁、腰板から洩れてくる陽光や寒風、冷気と闘いながら不便に耐えた。昭和20年3月、未完成の校内寄宿舎誠和寮に約50名移転したが、より多くの者がここに残り22,23年度に及んだ。誠和寮も全く粗末なつくりで、その内部設備は全く粗悪で、畳のかわりにムシロを使用、障子には髪も張ってなかったという。なお、この寮は昭和23年度に改造され、昭和34年頃までに利用された。
18年度女子部が開設され多数の寄宿舎生がいたが、男子同様仮寄宿曙町公会堂(現財務事務所)、菅生下寺、夏秋蚕飼育所と転々あるいは分散寄宿して不便をしのいでいた。これをみかねた新谷善三郎が氏の養蚕室を寄贈して下さり、昭和19年10月この改造工事がなって女子生徒の大半が移転した。昭和38年9月まで使用の女子寮、大和寮がそれである。なお、残りの女子生徒は昭和23年ころまで夏秋蚕飼育所寄宿舎にとどまった。
初期の寄宿生の暮らしは非常に厳しく、粗末で快適とは言い難い生活を強いられていたようです。昭和16年入学の1期生である松本光夫さんが蚕飼育所での思い出を「五十年誌」に書いておられます。すごくいい文章で心動かされたので転載させていただきます。

現在使用されているのは町営「星天寮」。令和2年度から全国募集で集まってきた生徒を中心に受け入れています。
次の写真は令和元年「星天寮」工事中の様子です。

令和7年9月現在、29名(定員30名)の生徒がここで寝食を共にしています。親元を離れ何かと不安もあるかと思いますが、清潔で快適な環境で生活できています。また、寮母さんをはじめとするスタッフのみなさんが支えてくれています。
まずは校長室にある扁額です。

この扁額については、「上高今昔8」で説明してあるのでそちらをご覧ください。
校長室にあるもう一枚の扁額です。

「成 必 則 勤」(勤むれば則ち必ず成る)皆川治広 書
まじめに勤めればことが成し遂げられるといった意味でしょう。「上浮穴農林学校」に贈られたものであり、「勤勉」の必要性を説いた言葉でしょうか。 皆川治広さんは、調べてみると松山市出身の方で、戦前戦後と法曹関係で全国的に活躍された方です。なぜこの方が本校のために書いてくれたのか、つながりは不明です。

「如 一 行 想」(宇都宮雅臣 書)です。第一教棟玄関下駄箱上に掛けられています。詳しくは「上高今昔39(部活動4 弓道部)をご覧ください。

「読 熟 思 静」(宇都宮雅臣 書)です。図書館の壁に掛かっています。「静思熟読」、じっくり本を読み思索することの大切さを説いているのだと思います。「五十年誌」には「語熟思静」と表記されていますが、「語」ではなく「読」と読めます。宇都宮雅臣さんは、本校の商業教員だった方で、「四十年誌」に掲載されている職員名簿の中にその名があります。

「礼法 百錬 心技」(稲田晃典 書)です。格技場にあります。稲田晃典さんも「四十年誌」の職員名簿に名前があります。芸術(書道)の教員だった方です。剣道・柔道にふさわしい言葉ではないでしょうか。

最後に船田一雄さん書の「知今堂」です。知今堂の東側の壁に掛かっています。「知今堂」と船田さんの関係、船田さんの為人は、「上高今昔35」をお読みください。築八十年の木造の講堂で、県下でも現役の建物は珍しいということでしたが、今年度夏休みから使用を見合わせています。安全を確保し、何とか再び使用できるようになることを願います。
このように、校内には六つの扁額が存在しています。