上高今昔24「上浮穴農林学校仮校舎」

2022年8月8日 16時45分
上高今昔

 本校は、昭和16(1941)年4月7日に開校されましたが、校舎は建設中(翌17年完成)であり、久万小学校に間借りして、仮校舎から出発しました。

 1枚目の写真は、「愛媛縣立上浮穴農林學校假校舎」の表札が掲げられている様子です。2枚目の写真は、現在の久万小学校正門の様子です。上部に錆びた金具が残されていますが、ここにかけたのでしょうか。

 3枚目の写真は、昭和16年7月、石鎚登山(当時は「石鎚行軍」)の際の出発式の様子です。農林学校仮校舎の表札は、向かって左の門柱に移動しています。右の門柱には、「上浮穴郡久万國民學校」の表札が掲げられています。我が国では、戦時体制に向けた学制の変更に伴い、昭和16年に、それまでの「尋常小学校」「高等小学校」は、「国民学校」となりました。4枚目の写真は、現況です。現在の正門は、門柱のみですが、かつては、門柱を金具状のものでつなぎ、空中に門灯?のようなものが設置されたハイカラな造りであったことが分かります。また、現在は、門柱間の幅が広げられていることも分かります。

 5枚目の写真は、戦前の久万小学校の様子です。6枚目は、現況です。校舎は建て替えられていますが、石組みと門柱に面影が残っています。

 郡と町とともに歩んできた本校の歴史が感じられる写真です。 詳しい沿革史は、→こちら

 

上高今昔23「石鎚登山今昔」

2022年8月4日 08時45分
上高今昔

 森林環境科3年生の皆様、→石鎚登山お疲れ様でした。思い出に残る行事になったことと思います。今回の上高今昔では、本校の伝統行事である石鎚登山を振り返ってみます。

 1枚目の写真は、昭和16(1941)年7月に行われた、1期生の皆様の登山の様子です。本校は昭和16年4月に開校されましたので、開校当初最大の行事であったと思われます。当時は、日中戦争(昭和12(1937)年~昭和20(1945)年)のさなかであり、昭和16年12月には太平洋戦争が始まりますので、この写真からは、当時の社会情勢がうかがえます。名称は「石鎚行軍」とされていたようです。脚には、軍隊式の巻脚絆(まききゃはん)である「ゲートル」が巻かれています。頂上まで校旗を持って上がったようです。

 2枚目の写真は、戦後の昭和32(1957)年のものです。黒の学生帽が当時の男子高校生の定番でした。

 3枚目の写真は、昭和41(1966)年卒の皆様の様子です。鎖場にての撮影です。麦わら帽子着用が指示されていたそうです。

 4枚目の写真は、昭和58(1983)年のものです。体操服着用です。女子生徒の皆様の姿も見えます。

 石鎚登山を通じ、「上高は昔も今もこれからも」の感を強くしました。(愛媛県剣道連盟様のスローガンから拝借いたしました。)

 本校の詳しい沿革については、こちら。→沿革史

上高今昔22「旧本館」

2022年7月28日 16時40分
上高今昔

 校内で旧本館のカラー写真を見つけました。旧本館は、創立の翌年である昭和17(1942)年に完成しました。太平洋戦争(昭和16~20年)のさなかのことです。木造の校舎の味わいが感じられます。旧本館は、昭和49(1974)年に現本館が完成するまで使われました。右手に図書館が見えますので、図書館完成の昭和35(1960)年から本館着工の昭和47(1972)年までに撮影されたものと思われます。のちに、手前の耕地の場所に現本館が建てられます。

 なお、「What is 上高」→「学校概要」→「沿革」に、本校の沿革史をまとめていますので、御覧ください。→沿革史

 

上高今昔21「体育館の今昔」

2022年7月1日 09時10分
上高今昔

 本校の体育館は、平成29(2017)年に建て替えられた新しいものです(写真1~3)。構造躯体は、県内産の杉の集成材でできており、まさに、森林環境科を持つ本校にふさわしい体育館です(写真4、5)。現在、体育館を使用している部活動は、バドミントン部(男女)のみですので、放課後は、バドミントン部専用体育館となっています(写真6)。

   7枚目の写真は、平成2(1990)年撮影のもので、かまぼこ形の青い屋根の建物が旧体育館です。8枚目の写真は、旧体育館が落成した昭和38(1963)年の撮影です。最後の写真は、平成28(2016)年10月に行われた「旧体育館とのお別れ会」の様子です。鉄骨でできている構造が分かります。

上高今昔20「遠足今昔」

2022年5月7日 09時05分
上高今昔

 生徒の皆さん、昨日の遠足、お疲れ様でした。生徒、教職員の親睦が深まったことと思います。

 さて、今回の上高今昔は、遠足の今昔を振り返ってみました。1枚目の写真は、昭和16(1941)年7月に行われた1期生の皆様の遠足のようすです。撮影場所は、石鎚山頂です。当時は、遠足と呼ばず、「行軍」と称していたとのことです。また、脚に「ゲートル」という脚絆を巻いているところにも、当時の社会情勢がしのばれます。2枚目の写真は面河渓、3枚目の写真は御三戸、4枚目の写真は大野ヶ原での撮影です。

 5枚目の写真は、昭和58(1983)年の遠足で、石鎚山頂での撮影です。

 6枚目の写真は、平成2(1990)年の皿ヶ峰への遠足です。

 最後の2枚は、平成11(1999)年頃のもので、バスで遊園地へ行った遠足のようすです。

 遠足のとらえ方が、時代とともに移り変わってきたことが、うかがえます。

上高今昔19「林産加工実習棟」

2022年3月29日 10時40分
上高今昔

 本校の運動場の東側に、林産加工実習棟があります。ここでは、キノコの栽培実習を行っています。実習棟の横の樹木(楓、ポプラ)が大きくなりすぎたため、この度、伐採しています。大きすぎて、私たちの手には負えませんので、業者様にお願いしました。朝から、クレーン、高所作業車などの重機が運び込まれ、伐採が進んでいます。部活動で登校していた、森林環境科の生徒たちも、興味深く見ていました。

 林産加工実習棟は、昭和58(1983)年に竣工しました。次の写真は、平成2(1990)年、平成12(2000)年、平成22(2010)年、令和2(2020)年のものです。約40年で、大きく育ったのですね。

上高今昔18「旧正門」

2022年1月19日 14時00分
上高今昔

  今回の上高今昔は、旧正門を紹介。本校の現在の本館は、昭和49(1974)年に、旧本館とは全く違う位置、敷地の外側に建てられました。旧正門は、本館とテニスコートを隔てる水路の橋上にありました。

 一枚目の写真は、旧本館、旧正門、図書館と水路が写っています。昭和35(1960)年頃の写真と思われます。新谷善三郎翁の記念碑も見えます。二枚目の写真は、現況です。三枚目の写真は、昭和49年に旧本館を取り壊した直後の写真で、旧正門が見えます。校名の銘板は、外されています(その後、現正門に移設。)。四枚目の写真は、現況です。五枚目の写真は、正門の右側部分の礎石の名残です。旧正門右側奥の庭石は、植え込みに隠れていますが、今も残っています。

 体育館等へ移動するときに、見てみてください。

上高今昔17(寮・寄宿舎の今昔)

2021年12月23日 14時10分
上高今昔

今回は、寮・寄宿舎の今昔について。

 県立上浮穴農林学校開校(昭和15(1940)年)の頃は、半数の生徒が寄宿舎生でした。交通が未発達だったためと思われます。はじめ、男子は、アラマ実習地(現在の久万中学校の地)にあった仮寄宿舎で生活し、女子(昭和18(1943)年女子部創設)は、町公会堂や夏秋蚕飼育所等に分散寄宿していました。

これを見かねた新谷善三郎翁が昭和19(1944)年に、現在の体育館北側に、女子寮を寄贈されました。これが「大和寮」です。

男子については、昭和20(1945)年に、「大和寮」の南側(現在の体育館の位置)に、「誠和寮」が建てられました。1枚目の写真は、昭和19(1944)年のものです。「誠和寮」が建築中です。2枚目の写真は、昭和20年代のものと思われます。中央の建物が「大和寮」、右側が「誠和寮」です。

 その後、昭和38(1963)年に、旧体育館が建設されるときに、「誠和寮」が取り壊され、現在の「星天寮」の位地に、「寄宿舎」が建てられます。3枚目の写真は、平成12(2000)年のものです。「寄宿舎」が見えます。プールとの間にあるのは、弓道場です。4、5枚目の写真は、昭和48(1973)年頃の「寄宿舎」の様子です。定員は、26名でした。この「寄宿舎」は、平成11(1999)年度卒業生1名を最後に、その後、利用者はありませんでした。

 一方、「大和寮」は、昭和49(1974)年に取り壊されました。この年、現在の本館が完成し、旧本館が取り壊されています。

 そして、令和2(2020)年3月、「星天寮」が完成、現在に至ります。

 「上高の歴史は、寮と共に有り。」といえます。

上高今昔16(ストーブの今昔) 

2021年11月24日 13時10分
上高今昔

本日、久万高原町の気温は、正午の時点で、8℃です。町の境の山には、うっすらと雪が見られます。

 しかし、本校の教室は、ストーブが入り、快適です。期末考査に向け、学習もはかどっています。コロナ対策も含めて、こまめな換気をいたしましょう。

 さて、本校の教室のいくつかには、壁の穴をふさぐフタが見られます。この穴は、実は煙突につながっているのです。本校本館(昭和49(1974)年竣工)の屋上には、煙突が見られます。この煙突は、現在は、使われていません。煙突は、屋上から、外壁に沿って、地上まで続く構造となっています。煙突の地上部分には、ススをとるための(?)点検窓が残っています。昔のストーブは、図書館の古い写真に見られるような、煙突ストーブでした。壁の穴にストーブの煙突をつなげて、1階から4階まで、まとめて排気していたのですね。今のストーブは、煙突がないので、校舎の煙突の役目は終わっています。

 本校の校舎は、建築の当初、「寒冷地仕様」で建てられていたことが分かります。久万高原町は寒いと思われがちですが、室内はあったかです。

 

上高今昔15(森林環境科の建物の変遷)

2021年9月27日 11時00分
上高今昔

1枚目の写真は、現在の様子です。右側が林業教棟で、昭和47(1972)年竣工です。左側が林業実習棟で、昭和62(1987)年竣工です。現在の教育活動は、主に林業実習棟で行っています。

2枚目の写真は、昭和38(1963)年のものです。現在とは、ずいぶん違います。知今堂の向かい側、すなわち、現在の武道場(昭和52(1977)年竣工)の位地に、2階建ての木造建築が見えます。これが、3枚目の写真に写っている建物であり、「中校舎」と呼ばれた、旧林業教棟です。この写真の右隅に、わずかに、現在の林業教棟が見えるので、1972~1977年の間に撮影されたものと思われます。

2枚目の写真では、現在の二つの教棟の位地に、平屋の木造建築がいくつか見えます。当時の図面を見ると、「農産加工室」「木材加工室」「工作室」「鶏舎」「牛舎」「豚舎」「堆肥舎」などがあったようです。4枚目の写真は、「工作室」の内部です。機械の様子が時代を感じさせます。

5枚目の写真は、林業教棟建設中の様子、6枚目の写真は、林業実習棟竣工時のものです。

生徒の皆さんには、森林環境科の伝統を感じ、誇りを持っていただきたいと思います。