上高今昔
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本館から体育館に伸びる中央通路の両脇に、大きな「メタセコイア」の木があります。15mほどにも育つ木ですが、大きくなりすぎたため、現在では、縮伐しています。幹の太さは80㎝ほどもあります。
メタセコイアは、「生きている化石」と呼ばれています。戦前の昭和14(1939)年、三木茂博士がセコイアに似た植物化石を発見し、「メタセコイア」と命名しました。メタセコイアは新生代第三紀に栄え、絶滅したものと考えられていました。しかし、戦後の昭和21(1946) 年、中国で現存するものが発見され 、「生きている化石」として一躍有名になりました。その後、昭和24(1949)年に、育苗していたアメリカの博士から我が国に挿し木が贈呈され、その苗が日本各地に広がり、街路や学校等に植えられました。教材として好適だったと思われます。スギ科の植物ですが、落葉します。春の新緑、夏の深緑、秋の紅葉、冬の枯れ姿が楽しめます。
本校は、戦前の昭和16(1941)年に「愛媛県立上浮穴農林学校」として開校され、戦後の昭和23(1948)年に新制高校である「愛媛県立上浮穴高等学校」となりました。メタセコイアの由来から考えると、新制高校初期に、旧正門の両脇に植えられたものと考えられます。
ところで、平成2(1990)年頃の写真を見ると、旧西門跡にも、メタセコイアが見られます。現在では、切り株となっています。最後の2枚の写真は、昨年の11月中旬の様子です。
本校の詳しい沿革は、こちら。→沿革史







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1枚目の写真は、旧西門跡から知今堂方面を撮影したものです。テニスコートのあたりに、旧本館(昭和17(1942)年~昭和49(1974)年)がありました。右手の方に、大きな桐(きり)の木が見えます。旧本館の前庭に当たる場所に育っています。幹の直径は、80㎝位もあります。植えられた時期は不明ですが、初期の頃と思われます。桐は、育つのが早く、その材は桐箪笥(たんす)のような高級家具に使われます。
ところで、桐の木は、学校教育と関わりが深く、筑波大学が校章にしているほか、桐の字が校名に入っている学校も見られます。古来中国では、徳のある優れた王が即位すると、瑞兆(めでたい印)である鳳凰(ほうおう)と呼ばれる霊鳥が現れると伝えられてきました。この鳳凰が宿る木として神聖視されたのが桐です。鳳凰が、桐の木で羽を休め、力を蓄え、羽ばたいていくイメージは、生徒が学校で学業を修め、力強く世に出て行くことと重なります。当時の本校関係者も、そのような思いで桐の木を植えたのでしょうか。
現在、本校で力を蓄えている在校生のみなさん、力強く羽ばたく日を期待しています。
本校の詳しい沿革は、こちら。 →沿革史





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雷雨に遭いやすい季節となってきました。天空に近い久万高原町だけに、雷ははげしいような印象があります。安全には、十分注意いたしましょう。
気象庁ホームページ「雷から身を守るには」より。「雷は、雷雲の位置次第で、海面、平野、山岳などところを選ばずに落ちます。近くに高いものがあると、これを通って落ちる傾向があります。グランドやゴルフ場、屋外プール、堤防や砂浜、海上などの開けた場所や、山頂や尾根などの高いところなどでは、人に落雷しやすくなるので、できるだけ早く安全な空間に避難して下さい。鉄筋コンクリート建築、自動車(オープンカーは不可)、バス、列車の内部は比較的安全な空間です。また、木造建築の内部も基本的に安全ですが、全ての電気器具、天井・壁から1m以上離れれば更に安全です。」詳しくは、こちら。→気象庁HP
雷と言いますと、本校の建物には、「避雷針」が設置されています。1枚目は、本館の写真です。2カ所の階段通路の屋上に、各1本の避雷針があります。2枚目は、本館東側のもの、3枚目は、本館西側のものです。避雷針は、雷を避けるというよりは、受け止めて、埋設した装置から地中に流すというものです。避雷針の下の地表近くの壁面には、4枚目の写真のように、埋設部分の標示板があります。完成したのは、昭和59(1984)年8月14日となっています。
5枚目の写真は、林業教棟の避雷針です。設置時期は、本館と同じです。
6枚目の写真は、林業実習棟の避雷針です。林業実習棟は、昭和62(1987)年3月25日に竣工しており、7枚目の写真のように、避雷針の設置も同日となっています。
本校の校舎には、久万高原町の自然・気候に合わせた設備が取り入れられているといえます。
本校の詳しい沿革史は、こちら。→沿革史






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本校周辺には、学校の歴史を感じさせる石垣が多く残されています。
まず、1枚目の写真は、星天寮の向かいにある、久万小学校の東境の石垣です。本校開校の昭和16(1941)年以前からあったと考えられます。2枚目の写真が、石垣の様子です。丸みのある自然に近い石を大小組み合わせています。「野面積み(のづらづみ)」と呼ばれる積み方に近いものです。この石垣が、本校周辺で最も古いものと考えられます。
3枚目の写真は、図書館南側を流れる用水路です。かつての旧本館や旧正門があったあたりです。4枚目の写真は、水路の石垣の様子です。表面を荒く加工した石の隅を立てて積んでおり、「谷積み(たにづみ)」や「落積み(おとしづみ)」と呼ばれる積み方です。石材相互に力が働き、安定性があると言われています。開校当初からの石垣であり、この水路に続いてグラウンドの外周をぐるりと取り囲んでいます。
5枚目の写真は、現在の正門の用水路です。6枚目の写真は、石垣の様子です。表面を丁寧に加工した長方形の石を並行に積んでおり、「布積み(ぬのづみ)」と呼ばれる積み方です。見栄えはよいですが、強度的には、「谷積み」に劣るようです。6,7枚目の写真は、昭和49(1974)年頃の写真であり、現本館と併せて現正門を整備した工事の様子です。この石垣が最も新しいものになります。
戦国武将である武田信玄の言葉「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり。」にあるように、私たちも石垣のようなチームワークを作っていきたいものです。 ※本校の詳しい沿革史は、こちら →沿革史








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本校は、昭和16(1941)年4月7日に開校されましたが、校舎は建設中(翌17年完成)であり、久万小学校に間借りして、仮校舎から出発しました。
1枚目の写真は、「愛媛縣立上浮穴農林學校假校舎」の表札が掲げられている様子です。2枚目の写真は、現在の久万小学校正門の様子です。上部に錆びた金具が残されていますが、ここにかけたのでしょうか。
3枚目の写真は、昭和16年7月、石鎚登山(当時は「石鎚行軍」)の際の出発式の様子です。農林学校仮校舎の表札は、向かって左の門柱に移動しています。右の門柱には、「上浮穴郡久万國民學校」の表札が掲げられています。我が国では、戦時体制に向けた学制の変更に伴い、昭和16年に、それまでの「尋常小学校」「高等小学校」は、「国民学校」となりました。4枚目の写真は、現況です。現在の正門は、門柱のみですが、かつては、門柱を金具状のものでつなぎ、空中に門灯?のようなものが設置されたハイカラな造りであったことが分かります。また、現在は、門柱間の幅が広げられていることも分かります。
5枚目の写真は、戦前の久万小学校の様子です。6枚目は、現況です。校舎は建て替えられていますが、石組みと門柱に面影が残っています。
郡と町とともに歩んできた本校の歴史が感じられる写真です。 詳しい沿革史は、→こちら






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森林環境科3年生の皆様、→石鎚登山お疲れ様でした。思い出に残る行事になったことと思います。今回の上高今昔では、本校の伝統行事である石鎚登山を振り返ってみます。
1枚目の写真は、昭和16(1941)年7月に行われた、1期生の皆様の登山の様子です。本校は昭和16年4月に開校されましたので、開校当初最大の行事であったと思われます。当時は、日中戦争(昭和12(1937)年~昭和20(1945)年)のさなかであり、昭和16年12月には太平洋戦争が始まりますので、この写真からは、当時の社会情勢がうかがえます。名称は「石鎚行軍」とされていたようです。脚には、軍隊式の巻脚絆(まききゃはん)である「ゲートル」が巻かれています。頂上まで校旗を持って上がったようです。
2枚目の写真は、戦後の昭和32(1957)年のものです。黒の学生帽が当時の男子高校生の定番でした。
3枚目の写真は、昭和41(1966)年卒の皆様の様子です。鎖場にての撮影です。麦わら帽子着用が指示されていたそうです。
4枚目の写真は、昭和58(1983)年のものです。体操服着用です。女子生徒の皆様の姿も見えます。
石鎚登山を通じ、「上高は昔も今もこれからも」の感を強くしました。(愛媛県剣道連盟様のスローガンから拝借いたしました。)
本校の詳しい沿革については、こちら。→沿革史




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校内で旧本館のカラー写真を見つけました。旧本館は、創立の翌年である昭和17(1942)年に完成しました。太平洋戦争(昭和16~20年)のさなかのことです。木造の校舎の味わいが感じられます。旧本館は、昭和49(1974)年に現本館が完成するまで使われました。右手に図書館が見えますので、図書館完成の昭和35(1960)年から本館着工の昭和47(1972)年までに撮影されたものと思われます。のちに、手前の耕地の場所に現本館が建てられます。
なお、「What is 上高」→「学校概要」→「沿革」に、本校の沿革史をまとめていますので、御覧ください。→沿革史
