上高今昔11(体育祭今昔)

2021年9月1日 07時25分
上高今昔

本校では、現在、感染症対策を講じた上で、体育祭の練習・準備に取り組んでいるところです。

今回の上高今昔は、体育祭の歴史を振り返ってみました。昭和28年の写真には、仮装行列「源氏車」の様子が写っています。道具・衣装の作成に力が入っていることがうかがえます。昭和33年には、街を練り歩いていたようです(馬に乗ったお姫様の行列のようです。)。昭和32年の写真からは、「マット運動」が種目にあったことが分かります。現在とは、ずいぶん種目が異なっていたようです。体操が盛んだったのでしょうか。

なお、現在では、「体育祭」と呼んでいますが、「運動会」「体育大会」と呼んでいた時代もあるようです。昭和・平成・令和と時代が移り、週5日制、学習内容の増加、学校行事の精選などといった時代の流れの中、体育祭の規模は、縮小しつつ現在に至りますが、昭和の時代には、体育祭が一大イベントであったことがうかがえます。

さて、我々は、コロナ禍にあって、様々な制約の中で体育祭を開催することとなりますが、皆さんの力を結集して、充実した内容と思い出の詰まった体育祭とし、校史に1ページを残しましょう。

上高今昔10(実るほど…)

2021年8月23日 12時15分
上高今昔

本館東側にある本校の実習水田に行ってみました。雨・曇りの多い昨今ですが、順調に成長しているようです。稲穂が垂れ下がり始めました。あぜ道では、トンボが羽を休めています。トンボは、我が国では、古来、豊かな水田の象徴として親しまれてきました。

モノクロの写真は、昭和27(1952)年の稲刈りと昭和28年の代かきの様子です。機械のある現代に比べて作業が大変であった様子や、先輩方の頑張りが伝わってきます。稲刈りの場面は、西門や旧本館の位置から、現在の本館の1階会議室の辺りと推定されます。

ところで、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という、作者不詳の句があります。

若い緑色の稲はまっすぐに天に向かって成長し、実を付ける稲穂に成長します。更に稲穂の中の実(お米)がつまってくると、実の重みで自然と稲穂の部分が垂れ下がっていきます。これを人に例えて、若い頃はまっすぐに上を向いてぐんぐんと成長し、立派な人格を形成したのちには、頭の低い謙虚な姿勢になっていこうという教訓として使われています。

皆さんの成長を楽しみにしています。

 

上高今昔9(幻の南門)

2021年8月20日 11時55分
上高今昔

校内で「愛媛県立上浮穴高等学校南門」と書かれた銘板を見つけました。本館玄関から南の方を眺めると、何となく南方に続く、直線の通路の痕跡がみられます。南門建設時の写真を見ると、本館の写り具合から考えて、現在の40周年記念庭園の裏にあったようです。南門の建設は、昭和50(1975)年頃と推定されます。40周年記念庭園は、昭和55(1980)年に整備されました。南門は、このとき撤去されたものと考えられます。わずか5年くらいしか存在しなかった、幻の門といえます。40周年記念庭園は、PTA・同窓生有志の皆様から寄贈いただいたものです。

 

上高今昔8(安倍能成先生の扁額)

2021年8月4日 13時55分
上高今昔

本校所蔵の扁額(へんがく)を紹介。こちらは、本県出身の偉人、安倍能成(あべ よししげ)先生の揮毫(きごう)によるものです。

~愛媛県生涯学習センター『えひめの記憶』より~

安倍能成(1883~1966)

 学習院院長。哲学者。松山城下の小唐人町(現、松山市)出身。東京帝国大学(現、東京大学)で哲学を学んだ後、慶応義塾大学・法政大学・第一高等学校(現、東京大学教養学部)などの講師や教授を歴任。哲学、哲学史研究のため、ヨーロッパへ留学し、帰国後、京城大学教授(現、ソウル大学)・同法文学部長・第一高等学校長を歴任した。太平洋戦争終戦後は、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)改造内閣で文部大臣に就任して戦後の教育制度改革に尽力し、大臣退任後は帝室博物館総長・国立博物館館長を一時勤め、新制学習院院長となって亡くなるまで在任した。また、カント哲学の第一人者で、『カントの実践哲学』、『西洋古代中世哲学史』をはじめ、読売文学部賞を受けた『岩波茂雄傳』、そのほか『戦後の自叙傳』など、多くの著書がある。

 

※松山中学校の卒業生であり、愛媛県立松山東高等学校に銅像があります。

 

書かれている内容は、

「以常心処非常 為 上浮穴高校 辛卯秋 能成」とあります。(書は、右から読みます。)

常心を以て非常に処す、平常心をもって非常な事態に対処する…。教職員の心構えとして、心に刻みたい言葉です。

「辛卯(かのとう)」の年は、昭和26(1951)年に当たります。サンフランシスコ平和条約の署名があった年ですね。

上高今昔7(新・旧本館)

2021年7月29日 16時00分
上高今昔

この航空写真は、昭和49(1974)年ころ、即ち、47年前に撮影されたものです。現在の本館が建設中であり、旧本館と両方で写っているめずらしい写真です。旧本館は、現在の図書館と知今堂の間にあり、L字型になっています(現在の本館と平行の部分が元々の本館であり、L字型に運動場に向かって伸びている部分は、増築したもので、西校舎と呼ばれていたようです。)。

この年の9月10日に新本館が竣工し、9月30日に旧本館が取り壊されています。藤晃園(藤棚)の辺りでは、現在でも瓦のかけらが見られます。旧本館のものと思われます。

また、この年の11月16日に「落成式・創立35周年記念式」が挙行されています。現在の正門は、この年に造られたもので、右の門柱のうらに銘板があり、「贈 創立三十五周年記念 同窓生有志」と書かれています。本校では、多くの場所に、同窓会の皆様のお力添えがのこされています。

 

  

 

上高今昔6(昔も今も)

2021年7月7日 18時00分
上高今昔

本日の上高日記で、→久万幼稚園での交流学習の様子を紹介しました。創立50周年記念誌(平成2(1990)年刊)の中に、上浮穴農林学校女子部第1期生の皆様の交流学習(保育実習)の様子を写した写真を見つけました。

本校は、昭和16(1941)年4月に、愛媛県立上浮穴農林学校として開校されました。当時の教育制度は、現在と異なり、男女共学ではなかったので、この学校は、男子校でした。しかし、女子教育の充実を求める機運の高まりにより、昭和18(1943)年2月に、女子部が設置されました。(教育は、男女別で行われています。)

写真からは、幼児との交流を楽しんでいる様子がうかがえます。皆様、上は制服、下は「もんぺ」という服装のようです。

「地域の世代の異なる人々との交流から学ぶ」という本校の教育の伝統は、80年前から今に受け継がれています。

「上高は昔も今もこれからも」という感を強くしました。(※愛媛県剣道連盟のスローガン「剣道は昔も今もこれからも」から拝借いたしました。)

    

上高今昔5(スクールカラー?)

2021年7月1日 12時55分
上高今昔

本校のスクールカラー(学校を象徴する色)は?と問われると、皆さん「緑」と答えると思います。しかし、本校のスクールカラーを定めた規定は、見当たりません…。

しかし、森林環境科、森、林、山、高原、校舎…と、どう考えても、「緑」ですよね。

ただし、校舎(本館)、最初は、緑でなかったようです。『創立70周年記念誌』(2010年刊)で見つけた写真です。

 

上高今昔4(寮の歴史)

2021年6月29日 12時35分
上高今昔

 

  

 

 

最初の写真は、80周年記念誌(令和2(2020)年)に掲載の航空写真からとったものです。プールの向こうに星天寮が見えます。次の写真は、50周年記念誌(平成2(1990)年)の航空写真からとったものです。黄色の矢印で示したのが、旧の寄宿舎です。水色の矢印で示したのが、弓道場です。最後の図2枚は、『二十年史』(昭和40(1965)年発刊)に掲載の昭和38(1963)年現在の学校敷地図からとったものです。寄宿舎は、「新寄宿舎」と記されています。上高今昔3で紹介した、新谷善三郎翁から寄贈を受けた寮とは、別のものです。弓道場となる以前には「土俵」が設けられていたこともわかります。

寮の変遷を見ると、広域な上浮穴郡における高校教育が寮によって支えられてきたことが、わかります。

 

上高今昔3(新谷善三郎翁)

2021年6月25日 12時25分
上高今昔

本館から知今堂に向かう通路の横に、記念碑があります。本校開校の恩人である、新谷善三郎(しんたに ぜんざぶろう)翁(※おう:高齢の男性の尊称。)の記念碑です。昭和16年の本校開校まで、上浮穴郡には、中学校(旧制の中学校で、今で言う高校に当たります。)がなく、設立は郡民の悲願でした。生徒の皆さんには、地域の先覚者に感謝し、その思いを受け継いで、勉学に励み、上高、上浮穴郡のさらなる発展に貢献していただくことを期待しています。

 

『美川村二十年誌』

新谷善三郎 (1884~1970)

仕七川村9・12代村長、県議会議員3期。大正7年34歳の若さで村長となり、村の産業振興につとめ、みつまた(※和紙の原料となる植物)栽培を奨励し販路の開拓をはかり、郡内生産品を大蔵省印刷局に納入することに成功した。仕七川にはじめて電燈をともしたのも彼である。昭和10年県議会議員に当選し在任3期にわたったが、議員中の「みつまた通」として知られ、上浮穴郡のため多くの功績を残した。中でも県立上浮穴農林学校(現上浮穴高校)の創設につとめ、開校後はPTA会長として、学校発展に物心両面からの努力をした。同校構内にはその肖像のレリーフに5代校長安藤道治の「学びやを産み育てたるいさおしを永久にたたえてともに学ばん」の作歌を添えた頌徳碑が建てられている。(※いさおし:功労者のこと。)

 

『愛媛県史』 

上浮穴郡選出の県会議員新谷善三郎らが中心となって、昭和11年から上浮穴農林学校の設立運動をはじめ、ようやく昭和15年(1940年)8月28日設立が認可された。新谷善三郎は学校創設に努力し、特に、私財を投じて寮を建設し、さらに学校林購入・運動場拡張・校旗寄贈などをし、農業教育の発展に尽力した。

 

 

上高今昔2(通用門?西門?)

2021年6月23日 10時25分
上高今昔

 徒歩通学、バス通学の皆さんが使っている「通用門」。門柱の銘板を見ると、「愛媛県立上浮穴高等学校西門」と書かれています。正門から見ると北側にあるのになぜに?

 モノクロ写真は、昭和40年ころの「西門」です。図書館の位置から推測すると、知今堂-本館の間のテニスコートの入り口あたりです。新谷善三郎翁の記念碑のあたりが旧正門なので、確かに西側にあります。黄色の矢印が示しているコンクリートの構造物は、今も残っています。本館を建てる際に校地が広がり、門柱は今の位地に移動したのですね。