上高今昔
最初の写真は、80周年記念誌(令和2(2020)年)に掲載の航空写真からとったものです。プールの向こうに星天寮が見えます。次の写真は、50周年記念誌(平成2(1990)年)の航空写真からとったものです。黄色の矢印で示したのが、旧の寄宿舎です。水色の矢印で示したのが、弓道場です。最後の図2枚は、『二十年史』(昭和40(1965)年発刊)に掲載の昭和38(1963)年現在の学校敷地図からとったものです。寄宿舎は、「新寄宿舎」と記されています。上高今昔3で紹介した、新谷善三郎翁から寄贈を受けた寮とは、別のものです。弓道場となる以前には「土俵」が設けられていたこともわかります。
寮の変遷を見ると、広域な上浮穴郡における高校教育が寮によって支えられてきたことが、わかります。
上高今昔
本館から知今堂に向かう通路の横に、記念碑があります。本校開校の恩人である、新谷善三郎(しんたに ぜんざぶろう)翁(※おう:高齢の男性の尊称。)の記念碑です。昭和16年の本校開校まで、上浮穴郡には、中学校(旧制の中学校で、今で言う高校に当たります。)がなく、設立は郡民の悲願でした。生徒の皆さんには、地域の先覚者に感謝し、その思いを受け継いで、勉学に励み、上高、上浮穴郡のさらなる発展に貢献していただくことを期待しています。
『美川村二十年誌』
新谷善三郎 (1884~1970)
仕七川村9・12代村長、県議会議員3期。大正7年34歳の若さで村長となり、村の産業振興につとめ、みつまた(※和紙の原料となる植物)栽培を奨励し販路の開拓をはかり、郡内生産品を大蔵省印刷局に納入することに成功した。仕七川にはじめて電燈をともしたのも彼である。昭和10年県議会議員に当選し在任3期にわたったが、議員中の「みつまた通」として知られ、上浮穴郡のため多くの功績を残した。中でも県立上浮穴農林学校(現上浮穴高校)の創設につとめ、開校後はPTA会長として、学校発展に物心両面からの努力をした。同校構内にはその肖像のレリーフに5代校長安藤道治の「学びやを産み育てたるいさおしを永久にたたえてともに学ばん」の作歌を添えた頌徳碑が建てられている。(※いさおし:功労者のこと。)
『愛媛県史』
上浮穴郡選出の県会議員新谷善三郎らが中心となって、昭和11年から上浮穴農林学校の設立運動をはじめ、ようやく昭和15年(1940年)8月28日設立が認可された。新谷善三郎は学校創設に努力し、特に、私財を投じて寮を建設し、さらに学校林購入・運動場拡張・校旗寄贈などをし、農業教育の発展に尽力した。
上高今昔
徒歩通学、バス通学の皆さんが使っている「通用門」。門柱の銘板を見ると、「愛媛県立上浮穴高等学校西門」と書かれています。正門から見ると北側にあるのになぜに?
モノクロ写真は、昭和40年ころの「西門」です。図書館の位置から推測すると、知今堂-本館の間のテニスコートの入り口あたりです。新谷善三郎翁の記念碑のあたりが旧正門なので、確かに西側にあります。黄色の矢印が示しているコンクリートの構造物は、今も残っています。本館を建てる際に校地が広がり、門柱は今の位地に移動したのですね。