上高今昔
現在、吹奏楽部は少人数ながら、積極的な活動を行っています。令和6年度には本校の「魅Can部」として活動し、地域のイベント(「くままちひなまつり」や「林業まつり」等)にも積極的に参加しています。つい最近も、「星まちコンサート(トーンチャイム演奏)」を久万高原町役場前で行い、これは夏の恒例行事になりそうな予感です。

さて、吹奏楽部の創部について、「二十年史」P91の表(上高今昔38参照)にはまだ名前がないので、昭和36年度までは、部がなかったようです。「芸能部」がその前身かとも思われますが、「芸能部」は昭和32年度には姿を消しています。
ところが、「50周年記念誌」には次の写真が掲載されています。

「創立20周年記念 昭和35年ブラスバンド部初演」(50年誌P39)となっていますので、このあたりで結成されたと考えられますが、「二十年史」の記述とは食い違っています。20周年記念行事でのまだ部活動にはなっていない音楽選択生の発表の写真を、「五十年誌」を編集された方が「ブラスバンド部」と認識されたのではないかと思うのですが、正確な事実は不明です。
また、「60周年記念誌」には、昭和40年ブラスバンド部の写真が掲載されています。

職員室には、昭和48年から現在に至るまでの学校要覧が保管されています。部活動のところをチェックしていくと、「吹奏楽部」はもともと「音楽部」と呼ばれていて、昭和60年度に「ブラスバンド部」に名称を変え、さらに平成12年度に「吹奏楽部」に名称変更し、現在に至ります。ですから、上の二つの記念誌からの写真(昭和35年・昭和40年のブラスバンド部の写真)は、「ブラスバンド部」ではなく正しくは「音楽部」ではないかと思います。
これまで、吹奏楽部は、対外的な大会等で華々しい成績はないようですが、今年度3年生の田村花梨さんが「第49回全国高等学校総合文化祭 器楽・管弦楽部門」に、愛媛県の合同チームのコントラバス奏者として参加しました。

今後も、吹奏楽部には、音楽を楽しむ姿を見せてもらい、学校・地域を盛り上げていってほしいと思います。
上高今昔
今年2025年は昭和100年。上浮穴農林学校が認可された昭和15年を上高誕生の年と考えれば、上高は今年で85歳を迎えます。人間で言えばまずまずの年齢ですが、学校の年齡で言えばまだまだこれからです。まずは90歳、そして大きな節目の100歳を、そしてその後も久万高原町とともに歩んでいきたいものです。
さて、ここに『四十年誌』 があります。上高40歳、そして45年前の高校生(現在60代前半の方)の声が多く掲載されています。

最近の本校の批評は、と言うと、以前と比べるとあいさつや態度にしても、それ相応によくなって来ているように思う。友達と5・6年前の上の話をよくする。その時によく出てくる言葉というと「昔の上高は酷かったなあ。」である。実際、昔の上高は酷かったように思う。問題行動ばかり起こしていたようだ。現在の上高生の中には、これと言った問題行動を起こすといった生徒もいないようだ。しかし、それだけで、上高がよくなったと言っていいのだろうか。(中略)先生と擦れ違っても、会釈をする生徒などはほとんどいないし、授業の始めと終わりの礼などもざっとしたもので、ある授業では、数名の者が起立して礼をするが、あとの者は椅子に座ったままである。(3年男子)
今の私の高校生活は、クラブ活動にしても勉強にしてもエネルギッシュに情熱的に、自分自身を完全燃焼させることができるものがなく、あらゆる新しいものを取り入れるべきであろうこの時期に、自分では何もしようとせずそれらのことを放棄し、将来のために自分で工夫や努力をして何かを勝ち得ようともせず今の自分に小さく満足して、他人からあたえられたような環境に妥協している状態なのです。(中略)他人の目を鏡のように気にして、外見だけを生きがいとし、自分を傷つけまい、失敗すまい、友達に笑われまいとして、何のとりえもないような高校生になってしまいそうな気がします。(2年女子)
上浮穴高校、今、県下でどうおもわれているだろう。進学率、部活動となににしても活躍していない。そして、相手にもしてもらえない。気にもとまるような学校ではないと思う。(中略)サッカー部の歴史について、過去、県で優勝、四国で準優勝という偉業をなしとげている。どのような練習をしたんだろうか、どうして勝っていたんだろうかと思う。(中略)しかし、その後は、成績も悪く、だんだんと落ちぶれていき、悪いサッカー部、とんでもない部、練習をしない部と、高校に入ってから先輩によく聞かされた。過去の輝かしい部、そして今の部、あまりにも差がありすぎ、とてもなさけないとおもう。(3年男子)
華やかな40周年記念のイメージとは裏腹に、ネガティブな記述が目につきます。高校生活の中で充実感が得られず、鬱々とした日々を送っている様子がうかがえます。学校創設から40年目、当時生徒であった方々に閉塞感のようなものが漂っていて、それを言語化する力に驚かされます。
昭和55年と言えば、戦争は遠くなり、今ほどでないにせよ物質的にも満たされていった時代です。バス等の交通機関の整備で、久万高原町の交通事情もよくなってきていたと思います。建学の精神や、郡に一つの高校を求めた戦前の地域の方の声も遠いものとなり、先輩たちの苦労や部活動での偉業もプレッシャーでしかなく、鬱々とするしかない当時の高校生の気持ちが赤裸々に語られています。
今、この時代からさらに45年が経過しました。全国募集も始まり、学校の状況は45年前とはまた違っています。今の生徒たちは、当時の生徒ほど気持ちを吐露することはありませんが、どんな思いを抱いているのでしょうか。
上高今昔
今年度、剣道部は新1年生に強力な男子3名が入部し、にわかに活気を帯びてきています。
また、外部指導者に本校の同窓生でもある菅先生をお迎えし、技術指導を行っていただいています。

今年度の県総体では男子は吉田高校と対戦し、4名対5名という数的不利な状況でありながら、4-1で勝利し2回戦に進みました。
2回戦は強豪新田高校と対戦しましたが、気持ちで負けることなく戦い抜きました。今後が楽しみなメンバーです。
さて、創部当初の様子について、次のように書かれてあります。
剣道部は32年度に新設されるや、この年5月の総合体育大会でCゾーンで3勝1敗、11月の大会にも3勝1敗で準優勝に惜敗したが、早くも県高校剣道会に「上浮穴強し」の声があがった。翌昭和33年5月の総体では強敵宇和島東高と決勝を争い惜しくも3対2で敗れた。しかし、この戦績により、8月秋田市で開催の全国高校剣道大会にのぞみ、9月には四国高校剣道大会に宇和島東とともに出場した。(中略)34年、35年はやや沈滞気味であるが、斯界の評価は高く、剣道のさかんな本郡であるから将来もっとも期待を託せるクラブである。(『二十年史』)
その後も、『四十年誌』の年譜を見ると、昭和36年には髙橋博雄さんが県総合体育大会で個人優勝を果たし、岐阜市で行われた全国高校剣道大会に出場しています。そして、昭和40年6月の県総体では男子が団体優勝、昭和41年四国高校剣道選手権で岡崎博志さんが個人優勝、昭和42年四国高校剣道選手権で高岡忠さんが個人ベスト4、昭和45年県高校新人剣道大会で女子団体優勝、昭和47年県総体女子団体優勝、そのまま四国大会でも優勝を果たし、山形県で行われた全国高校総体に出場しています。また、昭和52年には正岡慶二郎さんが、国民体育大会(佐賀市)に出場と、枚挙にいとまがありません。『二十年史』で「将来もっとも期待を託せるクラブである」と語られていることは現実になっていました。

このように、伝統と栄光ある剣道部が、半世紀の時を隔て再び活躍することを願います!
上高今昔
今年も、全国高校野球選手権愛媛大会が開催されています。
本校は今年度北条高校・内子高校小田分校・済美平成高校との合同チームで参加し、3年生1名がエースで4番を務め、東温高校と対戦しました。

残念ながら5回コールドで敗れてしまいましたが、合同チームの形で毎週のように練習試合を行い、3年間よく頑張りました。本当にお疲れさまでした。
野球部の創部のいきさつについては、次のように書かれてあります。
野球部は25、26年度軟式の部がおかれたが、当時運動場が狭く、経費が莫大にのぼる点もあって廃止された。しかし、地域の方々の野球部設置希望はその後ますます強く、30年度運動場拡張工事が竣工するに及び、強力な運動がおこって、33年度硬式野球部の誕生にいたったのである。(『二十年史』)

『二十年史』に掲載されている校内敷地図です。1枚目は昭和23年の様子で、2枚目が、昭和39年のものです。実習畑・実数田を削る形で運動場が大きく北に広がったのが分かります。運動場が十分確保されたのをきっかけに、外部からはますます野球部創部の声が高まったようです。しかし、一方では次のような声も掲載されています。
昭和32年度、体育後援会の理事会はPTA体育委員会提案の野球部創設について検討した。この会に先立って調査した生徒のアンケートでは、創設賛成80%、男子54%で、男子の中にかなりの反対があり、教員・PTA・地元有志のなかにも野球部はなにぶん莫大な創設費と維持費がいる、冬期練習が不可能であるから成長の天井もしれている、などの理由をあげてむしろ本郡に適したスポーツこそ伸ばすべきだと反対する者もかなりあった。しかし、大勢は賛成で、32年度PTA総会で正式に発足が決定した。
賛否両論あったようですが、多くの地域の方の後押しもあり、野球部が創部に至りました。昭和35年にはベスト8に入り、着実に力を付けています。

35年度夏の大会には川之石高をシーソーゲームののち6対4で降し、続く2回戦で東温高校を8対0の大差で破り、準々決勝で宇和島東高に7対0で敗れた。(中略)県下ベスト8に進んで上浮穴高校野球部の存在を県民に強く印象づけた。(『二十年史』)
『四十年誌』の校史年表には、昭和44年7月、「高校野球県予選で、1回戦松山南高に4対3、2回戦西条農高に2対1で勝ち、3回戦に進出」したことも書き留められています。
その後、本校出身のプロ野球選手も誕生します。昭和54年普通科を卒業した丸山一仁さんです。高校卒業後は近畿大学に進学し、その後昭和58年ロッテオリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)に入団して、7年間現役生活を送ります。引退後も球団でコーチや広報、選手育成などの仕事に携わりました。令和3年には、本校で80周年の記念講演をしていただいています。(下写真は『創立80周年記念誌』による)

近年少子化の上に、野球人口の減少もあり、本校のみならず他校でも単独で大会に出場できない学校が増加してきています。合同チームという新しい形、合同応援という新しい形を受け入れながら、野球をしたい生徒がどの高校でも野球を楽しめる環境を作っていきたいものです。
上高今昔
図書館に2枚の古い写真が額に入って埋もれていました。
1枚目の写真です。

学校全体を撮影した航空写真です。グラウンドに校章の人文字が見えます。

L字型の旧校舎、知今堂・図書館が確認できます。
旧体育館も建っていることから昭和38年7月以降、そして林業科教棟がまだ建っていないので、昭和46年より前に撮影されたものです。
人文字を描き、わざわざ航空写真を撮っていることから、昭和45年の30周年記念かと思ったのですが、『四十年誌』(P17)に同じ写真が掲載されていました。「25周年記念航空撮影」と書かれてありました。昭和40年頃のものです。30周年記念は、記念誌を作らず翌年の昭和46年10月14日に式典のみが行われています。(上高今昔30)
2枚目の写真です。

これも航空写真で学校全体をやや、南側から撮影したものです。
校舎等の配置はほぼ今に近い感じですが、旧体育館です。
そして北の方まで広くとらえているので、現在の星天寮のあたりも確認できます。

よく見ると寄宿舎の手前に弓道場ではなく土俵が確認できます。
また、グラウンドを見ると夜間照明設備が確認できます。

ということは、グラウンドに夜間照明が設置される昭和52年2月より後で、土俵が弓道場に変わる昭和55年より前、昭和52〜54年頃に撮影時期が限定されます。
上高は、戦時下に認可され、建物や施設・設備は順次整えられていった歴史があり、それらの様子を見れば、いつの時代に撮影されたものかが特定しやすいのです。
上高今昔
手元に平成12年度から令和7年度までの「上高ノート」(平成28年度までは「生徒手帳」)があります。
本校では「身だしなみ規定」が昨年度(令和6年度)末から生徒会・職員間で検討され、大きく変わったので今回は「身だしなみ規定」に注目してその変遷を見てみたいと思います。
平成12年度までは、生徒心得の中の一つの項目に「服装は学校指定のものを正しく着用し、頭髪は端正かつ清潔にしよう。」とあるだけで、細かい規定は掲載されていません。
ところが平成13年度になると、急に「身だしなみ規定」が掲載されます。

そして平成15年度からは図式で「身だしなみ規定」が示されるようになります。

さらに平成18年度からは「極端な長髪は禁止」(男子)という記述から「前髪は眉にかからない」「横は耳にかからない」「後は襟にかからない」(男子)という風に、より細かく規定が定められるのでした。
靴下の色も、それまで男子は「白・灰・紺・黒の単色」であったのが、平成18年度に「白」一色に限定されます。おそらく、乱れた身だしなみを正したいという学校の思いがあったように感じます。そしてこの時定められた規定が基本的には令和まで続いていきます。
平成の終わりころから「ブラック校則」という言葉が広がり、マスコミや世間は、学校の校則に注目するようになります。学校の方も、生徒主体の「校則検討委員会」を開き、見直しが盛んに行われるようになりました。また、制服についても、ジェンダーや近年の夏の高温化に配慮したものが登場します。
本校でも今年度から女子の夏用スラックスを導入し(冬用スラックスは令和3年度に導入済み)、それに伴って、ポロシャツ(白・紺)が急遽導入されました。また、身だしなみの規定における「頭髪」等についても、長さ等を細かく決めることはやめ、「清潔感のある頭髪」としました。また上で示したイラスト等も削除しました。
令和7年度は、平成10年代に細かく規定されていった身だしなみの規定を、生徒のみなさんとの約束と信頼をベースにしてシンプルな形に戻した、記念すべき年度と言えるかもしれません。
上高今昔
本校の校歌は、昭和30年2月19日に制定されました。

作詞は、「上浮穴高等学校校歌制定委員会」とあり、複数の人たちで考えられたと思われます。「生徒諸君、卒業生諸子、父兄諸子を対象に校内募集を行い、多数の原稿中の中から十余篇の原稿を選出」し、これを「参考とした詩が正岡先生の手によって出来上がった」という事情が「山なみ(八号)」に書かれてあります。7音・5音を基本にした格調高い歌詞で、今ではあまり使わない言葉が散りばめられていますので、難しい言葉の意味を記します。
【起き伏す】いつも 【きはみ】頂点 【いや】なんと
【湍(はやせ)】急流 【ほとり】岸 【玉と澄む】玉のように美しく透き通っている(玉は美しい宝石や石を表す) 【おほらけく】おおらかに
【さとし】教え 【もろともに】一緒に
一番では「真理」を追究する理想の高さを西日本一の「石鎚の峰」の高さになぞらえ、二番では「良心」を磨く純真さを「仁淀川」の清澄さになぞらえて、絶えず努力を怠らない上高生を奮い立たせる歌詞になっています。三番では「集い」「一緒に」「助け」合いながら努力していこうということが強調されます。
また「雲は湧く」「霧深し」「力満つ」という流れは、入学して戸惑いながらも力をつけて卒業するまでの成長の流れを示しているようです。
作曲は「清家嘉寿恵」さんという外部の方に委託したようです。調べてみると、戦後愛媛大学教育学部の講師・助教授(音楽講座)を務められていた方で、合唱音楽の普及に力を入れた方です。本校だけではなく、愛媛県下の小中高等学校100校以上の作曲を行っている人です。ちなみに名前で間違えそうですが、この方は男性です。
歌詞の内容をよく理解して歌うと、また味わいが変わるかも知れませんね。
上高今昔
本校の図書館は、20周年記念事業の一つとして計画され、昭和35年11月に完成しました。久万造林株式会社社長で県議会議員、久万町長も務められた井部栄治氏の寄贈で完成しました。

『二十年史』には次のように書かれています。
昭和33年6月、はじめてこの計画がPTA幹事会の議題に上った時には、木造建築で内部設備を含めて総工費240万円というささやかな構想であった。昭和34年7月年開催の第1回20周年記念事業実行委員会も平屋建76坪の木造建築とし、総工費287・6万円、うち県費123・6万円、残額164万円の地元負担は町村および凶荒予備組合に100万円の援助を仰ぎ、同窓会は32万円、PTAも父兄一人当たり700円拠出して32万円の特別寄付とすると決定。(中略)ところが「昭和34年9月に入って井部栄治氏が個人で建設寄贈するという有難い話に急転」「さらに11月になり工費500万円で鉄筋コンクリート造りに決定」(中略)地元負担と県費分計246・6万円は図書館内部設備、図書館附属の女子便所および渡り廊下、教室改造、生徒昇降口改造、事務室倉庫新設、本館教棟廊下天井塗り替えなどに充当された。
もともとは、県費に加え、地元、同窓会、PTAの協力を仰ぎ、平屋の木造建築の図書館を建設する予定でしたが、井部氏のご厚意で、鉄筋二階建ての立派な図書館を寄贈していただき、図書館建設に用いるはずであった予算は、他の施設の充実に回した事情が書かれてあります。こうしたいきさつを経て、待ち望んでいた独立図書館が完成したのです。

1枚目の写真は、完成間もない図書館です。町内初の鉄筋コンクリート造りの図書館です。渡り廊下が北に伸びていて、旧本館につながる構造になっていたのが分かります。
2枚目は現在の様子です。3枚目は図書館を北側から撮った現在の様子です。旧本館を取り壊す際に、渡り廊下は残し、外壁を作って部屋を作ったのが分かります。作られた小部屋の2Fと、1Fの半分は現在倉庫になっています。

今度は建物の内部です。1枚目は当時の図書館の中です。2枚目が現在の様子です。当時の内部は中央に伸びているストーブが印象的ですが、今はこのストーブはありません。そして当時の室内はチェスの盤面のような床が目を引きますが、どこかのタイミングでそれが張り替えられたようです。書架の様子は今も全く変わりません。

この写真は当時の2Fの視聴覚教室の様子です。この部屋は、この後、芸術室、生徒課室を経て、現在は公営塾に使用されています。使用目的の変化が、上高の生徒の変化を象徴しているようです。
さて、図書館をご寄贈いただいた井部栄治氏については、データベース『えひめの記憶』に詳しく書かれてあるので、転載いたします。
井部栄治は、明治四二年二月一八日に久万町大字菅生二番耕地一三二六番地第一に生まれた。
宇都宮高等農林学校林業科を昭和八年に卒業し、翌九年二月に井部栄範の遺志を継いで、久万造林株式会社の第二代社長に就任した。栄治は二五歳であった。青年社長として内外の期待を背負っての登場である。栄治は自ら林地に出向き、作業員とともに汗を流しながら、学校で学んだ新しい育林知識と林業全般について実地に勉強していった。
栄治は、太平洋戦争時に召集されたが、戦後間もなく元気に帰郷し、直ちに株主総会を開いた。そこでは、会社再建対策も大切だが、戦災復興に必要な建築資材を早急に現地へ供出することを決議した。松山市の復興ぶりは全国でも際立っていたが、これには山林所有者が進んで復興に大きな役制を果たしたためである。
昭和二二年、栄治三八歳の時、郡内各町村有志の熱心な推挙により愛媛県議会議員選挙に立候補し、好成績で当選した。政治家としての第一歩を踏み出したのである。同年、時の町長の辞職にともない久万町民の要望によって栄治は町長職も兼務するようになった。
県議会では農林水産委員を務め、林業専門家である栄治は、生涯を通じ地方林業の育成発展に尽くす決意を更に深くした。(中略)林業関係以外の分野でも地域住民の生活向上を願い努力してきた。町村各地に公民館又は公会堂の建設を呼びかけ、相当額の寄付を行った。会社設立四〇周年記念事業として久万町へ公民館を、また上浮穴高等学校へ図書館を建設、寄贈したほか多くの寄付、寄贈を行っている。その中でも特筆すべきは、久万町への美術コレクションの寄贈である。栄治は、趣味として美術品収集をてがけていた。それは「井部コレクション」として世に知られていたが、一般に公開されてはいなかった。栄治は、それらの美術品を公開すべく、そのすべてを久万町に寄付し「久万美術館」が設立されたのである。(データベース『えひめの記憶』)
新谷善三郎氏、船田一雄氏らに加え、井部栄治氏の私財を投じる献身的な働きかけがあって今の上浮穴高校はあります。
さて、図書館ですが、南側から東側にかけて用水路に面しており、床からの湿度が高く、空調もないので書架の下方に置いていた本がどんどん傷んでだめになっていき、平成の終わりに一斉に本の廃棄を行ったそうです。その後、再度図書館を充実させようと、平成31年県立図書館の「学校図書館整備支援事業」に応募して協力を仰ぎ、80周年記念事業で同窓会に椅子を新調していただくなどして、今に至ります。来年度以降は70年近くの時を経てついに空調が付く予定です。
歴史を知ると、建物自体に興味と愛着がわき、先人の思いを無駄にせぬよう、この建物を今後も大切にせねばという思いにさせられます。
上高今昔
この写真を御覧ください。

雪景色の弓道場です。今回は、かつて本校に弓道部が存在し、女子団体が公式戦で愛媛県大会を制した歴史を掘り起こします!
学校要覧によると、弓道部は、昭和56年に愛好会として認められ、昭和59年部活動に昇格しています。その後、平成7年を最後に部員はいなくなり、平成12年~13年には休部となります。この2年を経て正式に廃部となったようです。
短命であった弓道部のことが話題にのぼることはあまりありませんが、先日、昭和55年から59年までの弓道部の記録を記したアルバムを見つけました。おそらく当時の顧問の先生が残されたものだと思います。
最初の記録は、昭和55年6月28日、弓道場の「道場開き」の記録です。


この年の『山麓』(第10号)を見ると、西田さんという当時生徒の方が次のように書かれています。
部紹介といっても、わが「弓道部」は正式には部ではありません。今年の初めに弓道場ができたのを機会として1年生7名、2年生2名の9名が毎日練習をしている同好会のようなものです。何といっても上浮穴郡には一つしかない弓道場です。上浮穴の弓道の中心として最初に道場を使う我々が先駆者になるつもりで頑張っています。(中略)倉本先生の話では、練習で半分の的中率になったら試合に出してくれるそうです。松山の中学校では一日に200射ぐらい引くということを聞きましたが、我々の場合は帰りのバスの関係でせいぜい40射くらいしか引けません。(中略)私の個人的な感じですが、弓道を始めてから何か精神的に落ち着きが出来たようです。
最初の公式戦の記録は、昭和57年10月31日の中予地区新人戦、「道場開き」から2年以上経過しています。

その後、今治南高校を招いて練習試合を行なったり、北条高校に出向いて練習試合を行ったりした写真が残されています。

練習に励んだ後に迎えた昭和58年の新人戦中予地区大会、愛媛県大会ともに、何と女子団体が優勝するのです。下の1枚目の写真は県大会の記録です。決勝トーナメントで済美、津島に勝利し、決勝松山商業戦でここ一番の集中力を発揮して好成績を残し、見事優勝しているのが分かります。新聞にもその記録が残っています。

翌年度、弓道部は部活動に昇格します。アルバムの記録は、ちょうど部活動に昇格した昭和59年で終わっています。まだページは残っているのですが・・顧問の先生が異動されたのでしょうか。
偶然見つけたこのアルバムの中には、町に一つの弓道場ができたことをきっかけにして、愛好会のメンバーが練習に励み、熱心な顧問の先生に見守られながら県優勝を果たす過程が記録されていました。県大会優勝は、弓道部がまだ部になる前の出来事だったのです。
一冊のアルバムの記録が掘り起こしたエピソードでした。
弓道場は令和に入って取り壊され、そこに今は星天寮が建っています(上高今昔4・38参照)。弓道場にあった扁額「想行一如」(宇都宮雅臣さん書)は、今は本館玄関前にあります。「思うこととすることが一体である」という弓道の目指す境地でしょうか。

上高今昔
昭和16年に上浮穴農林学校が開校し、どのように部活動は作られていったのでしょうか。
開校当初は、設備も十分でなく校舎すら完成していない状況で、しかも1年生しかいないわけですから、部活動どころではなかったでしょう。また、時代は戦時下です。
本校で部(クラブ)活動が形になりはじめたのは、昭和23年「上浮穴高等学校」になった頃だと思われます。

『二十年史』(P91)の「クラブの変遷」の図を見ると、昭和23年度から昭和36年度まで、どのような部・クラブがあったかが分かります。昭和23年度には、運動部5、文化部10の合計15の部(クラブ)が存在しています。この頃から本格的な活動が始まったと思われます。同じく『二十年史』には次のような記述があります。
昭和21年6月、(中略)相撲大会中予地区予選を前に、相撲部がまずクラブを結成し、初の対外試合に臨んだ。「松山の参加選手は栄養失調で君たちの敵ではない」、そう激励されて会に臨んだところ、相対した相手は18、9貫もあろうと思われる巨体ぞろいでビックリ、みごととって投げられ惨敗した。この年9月の大阪毎日新聞主催の大会にも出場したが、参加12校中9位という成績であった。しかし、その後激しい練習とたびたびの対外試合で鍛え、昭和23年春、県下第1回総合体育大会で早くも優勝を飾るまでに成長した。

1枚目の写真が、昭和23年の県総合体育大会で優勝した時の写真で、2枚目は全国大会に出発する前の壮行会の写真です。また、『二十年史』には次のような記述もあります。
35年度現在、運動部クラブ数は10ある。このうち過去に輝かしい足跡を残したのは相撲部で、上浮穴高校だと言えば、「ああ、相撲の強い学校ですか」と言われたものである。しかし、32、33年ころから急速に不振となり部員数が公式試合出場人数に満たない現況である。かわって、ここ4、5年の間にぐんぐん頭角をあらわしたのは蹴球部で、今や上高運動部のホープとして衆目の期待をあつめている。これに続くクラブは昭和23年以来コンスタントに成果を上げてきた陸上部、32年発足の剣道部である。他のクラブにはほとんどとどめるべき記録がないと言ってよい。
相撲部が昭和21年から昭和23年のわずか2年間でいかに県で優勝するまでの力を付けたのか、非常に興味深いところです。部員たちが悔しさをばねに、また優れた指導者に囲まれて一心に稽古に励んだ様子が想像されます。
今はなき相撲部は、開校して間もない上高の先陣を切って愛媛県、四国に「上高」の名を知らしめた、切り込み隊長的存在でした。そして相撲部の衰退と時を同じくして台頭してきたのが、前述したサッカー(蹴球)部でした。相撲部は昭和54年を最後に部員がいなくなり、59年に上高での役割を終えたのでした。土俵は今の星天寮の辺りにありましたが、昭和55年そこに弓道場が建てられました(上高今昔39参照)。