上高今昔
本校所蔵の扁額(へんがく)を紹介。こちらは、本県出身の偉人、安倍能成(あべ よししげ)先生の揮毫(きごう)によるものです。

~愛媛県生涯学習センター『えひめの記憶』より~
安倍能成(1883~1966)
学習院院長。哲学者。松山城下の小唐人町(現、松山市)出身。東京帝国大学(現、東京大学)で哲学を学んだ後、慶応義塾大学・法政大学・第一高等学校(現、東京大学教養学部)などの講師や教授を歴任。哲学、哲学史研究のため、ヨーロッパへ留学し、帰国後、京城大学教授(現、ソウル大学)・同法文学部長・第一高等学校長を歴任した。太平洋戦争終戦後は、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)改造内閣で文部大臣に就任して戦後の教育制度改革に尽力し、大臣退任後は帝室博物館総長・国立博物館館長を一時勤め、新制学習院院長となって亡くなるまで在任した。また、カント哲学の第一人者で、『カントの実践哲学』、『西洋古代中世哲学史』をはじめ、読売文学部賞を受けた『岩波茂雄傳』、そのほか『戦後の自叙傳』など、多くの著書がある。
※松山中学校の卒業生であり、愛媛県立松山東高等学校に銅像があります。
書かれている内容は、
「以常心処非常 為 上浮穴高校 辛卯秋 能成」とあります。(書は、右から読みます。)
常心を以て非常に処す、平常心をもって非常な事態に対処する…。教職員の心構えとして、心に刻みたい言葉です。
「辛卯(かのとう)」の年は、昭和26(1951)年に当たります。サンフランシスコ平和条約の署名があった年ですね。
上高今昔
この航空写真は、昭和49(1974)年ころ、即ち、47年前に撮影されたものです。現在の本館が建設中であり、旧本館と両方で写っているめずらしい写真です。旧本館は、現在の図書館と知今堂の間にあり、L字型になっています(現在の本館と平行の部分が元々の本館であり、L字型に運動場に向かって伸びている部分は、増築したもので、西校舎と呼ばれていたようです。)。
この年の9月10日に新本館が竣工し、9月30日に旧本館が取り壊されています。藤晃園(藤棚)の辺りでは、現在でも瓦のかけらが見られます。旧本館のものと思われます。
また、この年の11月16日に「落成式・創立35周年記念式」が挙行されています。現在の正門は、この年に造られたもので、右の門柱のうらに銘板があり、「贈 創立三十五周年記念 同窓生有志」と書かれています。本校では、多くの場所に、同窓会の皆様のお力添えがのこされています。



上高今昔
本日の上高日記で、→久万幼稚園での交流学習の様子を紹介しました。創立50周年記念誌(平成2(1990)年刊)の中に、上浮穴農林学校女子部第1期生の皆様の交流学習(保育実習)の様子を写した写真を見つけました。
本校は、昭和16(1941)年4月に、愛媛県立上浮穴農林学校として開校されました。当時の教育制度は、現在と異なり、男女共学ではなかったので、この学校は、男子校でした。しかし、女子教育の充実を求める機運の高まりにより、昭和18(1943)年2月に、女子部が設置されました。(教育は、男女別で行われています。)
写真からは、幼児との交流を楽しんでいる様子がうかがえます。皆様、上は制服、下は「もんぺ」という服装のようです。
「地域の世代の異なる人々との交流から学ぶ」という本校の教育の伝統は、80年前から今に受け継がれています。
「上高は昔も今もこれからも」という感を強くしました。(※愛媛県剣道連盟のスローガン「剣道は昔も今もこれからも」から拝借いたしました。)

上高今昔
本校のスクールカラー(学校を象徴する色)は?と問われると、皆さん「緑」と答えると思います。しかし、本校のスクールカラーを定めた規定は、見当たりません…。
しかし、森林環境科、森、林、山、高原、校舎…と、どう考えても、「緑」ですよね。
ただし、校舎(本館)、最初は、緑でなかったようです。『創立70周年記念誌』(2010年刊)で見つけた写真です。


上高今昔


最初の写真は、80周年記念誌(令和2(2020)年)に掲載の航空写真からとったものです。プールの向こうに星天寮が見えます。次の写真は、50周年記念誌(平成2(1990)年)の航空写真からとったものです。黄色の矢印で示したのが、旧の寄宿舎です。水色の矢印で示したのが、弓道場です。最後の図2枚は、『二十年史』(昭和40(1965)年発刊)に掲載の昭和38(1963)年現在の学校敷地図からとったものです。寄宿舎は、「新寄宿舎」と記されています。上高今昔3で紹介した、新谷善三郎翁から寄贈を受けた寮とは、別のものです。弓道場となる以前には「土俵」が設けられていたこともわかります。
寮の変遷を見ると、広域な上浮穴郡における高校教育が寮によって支えられてきたことが、わかります。
上高今昔
本館から知今堂に向かう通路の横に、記念碑があります。本校開校の恩人である、新谷善三郎(しんたに ぜんざぶろう)翁(※おう:高齢の男性の尊称。)の記念碑です。昭和16年の本校開校まで、上浮穴郡には、中学校(旧制の中学校で、今で言う高校に当たります。)がなく、設立は郡民の悲願でした。生徒の皆さんには、地域の先覚者に感謝し、その思いを受け継いで、勉学に励み、上高、上浮穴郡のさらなる発展に貢献していただくことを期待しています。



『美川村二十年誌』
新谷善三郎 (1884~1970)
仕七川村9・12代村長、県議会議員3期。大正7年34歳の若さで村長となり、村の産業振興につとめ、みつまた(※和紙の原料となる植物)栽培を奨励し販路の開拓をはかり、郡内生産品を大蔵省印刷局に納入することに成功した。仕七川にはじめて電燈をともしたのも彼である。昭和10年県議会議員に当選し在任3期にわたったが、議員中の「みつまた通」として知られ、上浮穴郡のため多くの功績を残した。中でも県立上浮穴農林学校(現上浮穴高校)の創設につとめ、開校後はPTA会長として、学校発展に物心両面からの努力をした。同校構内にはその肖像のレリーフに5代校長安藤道治の「学びやを産み育てたるいさおしを永久にたたえてともに学ばん」の作歌を添えた頌徳碑が建てられている。(※いさおし:功労者のこと。)
『愛媛県史』
上浮穴郡選出の県会議員新谷善三郎らが中心となって、昭和11年から上浮穴農林学校の設立運動をはじめ、ようやく昭和15年(1940年)8月28日設立が認可された。新谷善三郎は学校創設に努力し、特に、私財を投じて寮を建設し、さらに学校林購入・運動場拡張・校旗寄贈などをし、農業教育の発展に尽力した。
上高今昔
徒歩通学、バス通学の皆さんが使っている「通用門」。門柱の銘板を見ると、「愛媛県立上浮穴高等学校西門」と書かれています。正門から見ると北側にあるのになぜに?
モノクロ写真は、昭和40年ころの「西門」です。図書館の位置から推測すると、知今堂-本館の間のテニスコートの入り口あたりです。新谷善三郎翁の記念碑のあたりが旧正門なので、確かに西側にあります。黄色の矢印が示しているコンクリートの構造物は、今も残っています。本館を建てる際に校地が広がり、門柱は今の位地に移動したのですね。



