上高今昔34「雪景色の今昔」

2023年1月6日 12時45分
上高今昔

 令和4年末の雪は大変な降りようでした。ここのところ晴天が続き、日当たりのよいところでは、雪が解けていますが、本館の北側など日当たりの少ないところでは、雪が多く残っています(写真1枚目~3枚目)。堅く凍っていますので、通行には注意しましょう。

 雪の多い久万高原町ですので、本校の昔の写真にも、雪景色が見られます。4枚目の写真は、旧本館の雪景色です。撮影の年は不明ですが、玄関手前に「新谷善三郎翁頌徳碑」が見えることから、創立20周年の昭和35(1960)年から昭和49(1974)年の間に、西門方面から撮影されたものと思われます。

 5枚目の写真は、昭和63(1988)年11月28日に撮影されたものです。雪の中、サッカーに励んでいます。

 6枚目の写真は、平成21(2009)年12月18日に撮影されたものです。3枚目の写真と比較すると、旧の西側脱靴場の様子が分かります。令和4年に給食の搬入口に改装され、現在に至ります。

 本校の詳しい沿革は、こちら。→沿革史

上高今昔33「教育目標の今昔」

2022年12月21日 16時40分
上高今昔

    この度、本校では、令和5年度の「スクール・ポリシー」を策定し、公表したところです。(→こちら

    今回の上高今昔では、教育目標の今昔を振り返ってみました。

    本校の前庭(創立40周年記念庭園)に、大きな石碑があります。石碑には、

    「豊かな人間性」

    「高い知性と自律性」

    「たゆまぬ実践力」

と、刻まれています。この石碑は、平成2(1990)年に創立50周年記念として、同窓会の皆様により建立されたものです。4~6枚目の写真は、建立当時の式典の様子です。 

    石碑の裏側には、建立の趣旨と「教育目標の碑」である旨が記されています。この三つの文言は、正式には、本校の教育目標のうち、「指導目標」に位置付けられています。(→こちら

 一見、いわゆる校訓のようにも感じられますが、校訓ではありません。本校には、校訓はありません。

 本校の前身である「愛媛県立上浮穴農林学校」(昭和16(1941)年4月~昭和23(1948)年3月)には、校訓がありました。上浮穴農林学校が開校された年は、日中戦争(1937~1945年)の最中であり、その年の12月には太平洋戦争(1941~45年)が始まるという時代にあたります。そうした時代背景の中、開校当初の校訓は、「絶対服従」「絶対正直」「絶対真剣」というものでした。

    戦後、時代にそぐわない従来の校訓は使われなくなり、昭和23(1948)年4月、新制高校として「愛媛県立上浮穴高等学校」が発足すると、新たに教育目標が定められていきます。昭和26(1951)年に確立された教育目標は、

  〇人格の尊厳を重んじ、道義信念に基づく誠実無垢の人となる。

  〇責任と義務を明確に自覚し自主独往の人となる。

  〇自由平等の真義を悟り博愛平和の人となる。

  〇世界の進展開化におくれず協調進取の人となる。

  〇学問知識の向上に精励し技術の体得習熟に精進する。

  〇空理空論に走らず人類社会の実用に奉仕する。

というものでした。その後は、文章記述の教育目標が様々に変遷する時期が続き、昭和55(1980)年(創立40周年の年)に初めて、石碑に記された三つの目標が登場し、現在まで続いています。石碑に刻まれたことにより、事実上、本校の校訓として機能しているといえます。

 本校では、今回「スクール・ポリシー」を策定するにあたり、この三つの「指導目標」を踏まえ、「スクール・ポリシー」のうち、「卒業までに育てる力」の(1)(2)は「高い知性と自律性」を、(3)は「たゆまぬ実践力」を、(4)(5)は「豊かな人間性」を、それぞれ現代及び将来に投影したものといたしました。「不易流行」の言葉のように、本校は、これからも、伝統を受け継ぎ、時代に即応しながら、教育活動を進めてまいります。

※本校の詳しい沿革は、こちら。 →沿革史

上高今昔32「教育課程の今昔」

2022年11月28日 16時35分
上高今昔

 本校は、ただ今、第2学期末考査の発表期間中です。生徒の集中力が高まり、教員に質問している姿も多く見かけます。一方、教員は、多様な選択科目を設定した教育課程のもと、数多くの種類の考査問題を作成中です。

 昔の教育課程はどのようなものだったのか、「二十年史」を見てみました。昭和28(1953)年度入学生のものです。現在、80代半ばの先輩方でしょうか。

 普通科は、A、B、Cの3コースに分かれています。普通教科重視型、家庭・芸術重視型、商業重視型の特色が見られます。進学、家事・営農、就職など、多様な進路希望に応じたものとなっています。林業科の教育課程は、3年次において、普通科目と専門科目を選択でき、こちらも、多様な進路希望に応じることができます。なお、男女で教育課程が異なっているのは、現在と大きく異なるところです。

 これらの教育課程は、現在の本校の教育課程に酷似しています。1町1校の学校として、多様なニーズに応えるために先人が編み出した教育課程の工夫は、現在に受け継がれているといえます。

 本校の現在の教育課程については、こちら。→学校案内のページ

 本校の詳しい沿革については、こちら。→沿革史 

 

 

上高今昔31「文化祭今昔」

2022年11月4日 15時00分
上高今昔

 本日(11/4)、本校では、明日の文化祭に向けて準備中です。保護者、御家族様等に限定して公開といたしておりますので、地域の皆様の御理解をお願い申し上げます。今回の上高今昔は、創立50周年記念文化祭(平成2年11月24日(日))を振り返ってみました。32年前のことです。現在と比べると、発表において伝統文化の色彩が強いように見受けられます。また、マスクもなく、バザーや飲食も活発であったようです。

本校の詳しい沿革は、こちら。→沿革史

上高今昔30「旧本館玄関」

2022年11月1日 08時25分
上高今昔

 本校には、創立30周年記念式典(昭和46(1971)年10月14日(木))のパンフレット(写真1枚目)が残されています。表紙には、旧本館(昭和17(1942)年~昭和49(1974)年)の玄関の写真(写真2枚目)が掲載されています。現在の本館(写真3枚目)は旧本館の南側に建てられ、その際、旧本館は取り壊されています。

 現在の本館の玄関(写真4枚目)を入りますと、その向こうに中央通路(写真5枚目)が見えます。本館を出たところに水路があり、この辺りが旧正門の位地(写真6,7枚目)です。旧正門の銘板は、現在の正門に移されています。中央通路を少し進んだ辺りが、旧本館玄関の位置(写真8枚目)です。

 旧本館が完成した昭和17(1942)年は、太平洋戦争(昭和16(1941)年~昭和20(1945)年)のさなかです。多難な時代に学校を立ち上げた先人の皆様の努力に感じ入る次第です。

 本校の詳しい沿革は、こちら。→沿革史

上高今昔29「メタセコイア」

2022年9月14日 16時45分
上高今昔

 本館から体育館に伸びる中央通路の両脇に、大きな「メタセコイア」の木があります。15mほどにも育つ木ですが、大きくなりすぎたため、現在では、縮伐しています。幹の太さは80㎝ほどもあります。

 メタセコイアは、「生きている化石」と呼ばれています。戦前の昭和14(1939)年、三木茂博士がセコイアに似た植物化石を発見し、「メタセコイア」と命名しました。メタセコイアは新生代第三紀に栄え、絶滅したものと考えられていました。しかし、戦後の昭和21(1946) 年、中国で現存するものが発見され 、「生きている化石」として一躍有名になりました。その後、昭和24(1949)年に、育苗していたアメリカの博士から我が国に挿し木が贈呈され、その苗が日本各地に広がり、街路や学校等に植えられました。教材として好適だったと思われます。スギ科の植物ですが、落葉します。春の新緑、夏の深緑、秋の紅葉、冬の枯れ姿が楽しめます。

 本校は、戦前の昭和16(1941)年に「愛媛県立上浮穴農林学校」として開校され、戦後の昭和23(1948)年に新制高校である「愛媛県立上浮穴高等学校」となりました。メタセコイアの由来から考えると、新制高校初期に、旧正門の両脇に植えられたものと考えられます。

 ところで、平成2(1990)年頃の写真を見ると、旧西門跡にも、メタセコイアが見られます。現在では、切り株となっています。最後の2枚の写真は、昨年の11月中旬の様子です。

 本校の詳しい沿革は、こちら。→沿革史

 

 

上高今昔28「桐の木」

2022年9月9日 08時20分
上高今昔

 1枚目の写真は、旧西門跡から知今堂方面を撮影したものです。テニスコートのあたりに、旧本館(昭和17(1942)年~昭和49(1974)年)がありました。右手の方に、大きな桐(きり)の木が見えます。旧本館の前庭に当たる場所に育っています。幹の直径は、80㎝位もあります。植えられた時期は不明ですが、初期の頃と思われます。桐は、育つのが早く、その材は桐箪笥(たんす)のような高級家具に使われます。

 ところで、桐の木は、学校教育と関わりが深く、筑波大学が校章にしているほか、桐の字が校名に入っている学校も見られます。古来中国では、徳のある優れた王が即位すると、瑞兆(めでたい印)である鳳凰(ほうおう)と呼ばれる霊鳥が現れると伝えられてきました。この鳳凰が宿る木として神聖視されたのが桐です。鳳凰が、桐の木で羽を休め、力を蓄え、羽ばたいていくイメージは、生徒が学校で学業を修め、力強く世に出て行くことと重なります。当時の本校関係者も、そのような思いで桐の木を植えたのでしょうか。

 現在、本校で力を蓄えている在校生のみなさん、力強く羽ばたく日を期待しています。

 本校の詳しい沿革は、こちら。 →沿革史

 

上高今昔27「バス停」

2022年9月7日 08時45分
上高今昔

 現在の国道33号線は、本校前の旧道より一段高い段丘上を通っています。その33号線を高知方面に向かう車線の左側に、「上浮穴高校前」バス停と待合所があります。高低差はありますが、校舎がすぐ向こうに見えます。段丘の下から見ると、神社仏閣の「懸造(かけづくり)」のようなつくりとなっています。このバス停は、落出(おちで)と久万を結ぶ町営バスと、面河と久万を結ぶ伊予鉄南予バスとの共用となっています。また、この待合所は、学校から帰宅する生徒のためのものであり、雨や雪、寒風など久万高原の厳しい気象から生徒たちを守ってくれています。自宅から学校へ到着する車線のバス停には、待合所がありません。バスを降りてから学校までは、徒歩1分少々です。

 記録によると、この待合所は、昭和55(1980)年3月に竣工しました。「上浮穴郡町村長会」の寄附によるものとのことです。本校が、上浮穴郡から強い御支援をいただいてきたことを語る施設と言えます。最後の写真は、竣工当時の写真です。

 なお、久万高原町は、平成16(2004)年に、上浮穴郡久万町、面河村、美川村、柳谷村の1町3村が合併して誕生しました。

 本校の詳しい沿革は、こちら。→沿革史

上高今昔26「避雷針」

2022年8月22日 15時15分
上高今昔

 雷雨に遭いやすい季節となってきました。天空に近い久万高原町だけに、雷ははげしいような印象があります。安全には、十分注意いたしましょう。

 気象庁ホームページ「雷から身を守るには」より。「雷は、雷雲の位置次第で、海面、平野、山岳などところを選ばずに落ちます。近くに高いものがあると、これを通って落ちる傾向があります。グランドやゴルフ場、屋外プール、堤防や砂浜、海上などの開けた場所や、山頂や尾根などの高いところなどでは、人に落雷しやすくなるので、できるだけ早く安全な空間に避難して下さい。鉄筋コンクリート建築、自動車(オープンカーは不可)、バス、列車の内部は比較的安全な空間です。また、木造建築の内部も基本的に安全ですが、全ての電気器具、天井・壁から1m以上離れれば更に安全です。」詳しくは、こちら。→気象庁HP

 雷と言いますと、本校の建物には、「避雷針」が設置されています。1枚目は、本館の写真です。2カ所の階段通路の屋上に、各1本の避雷針があります。2枚目は、本館東側のもの、3枚目は、本館西側のものです。避雷針は、雷を避けるというよりは、受け止めて、埋設した装置から地中に流すというものです。避雷針の下の地表近くの壁面には、4枚目の写真のように、埋設部分の標示板があります。完成したのは、昭和59(1984)年8月14日となっています。

 5枚目の写真は、林業教棟の避雷針です。設置時期は、本館と同じです。

 6枚目の写真は、林業実習棟の避雷針です。林業実習棟は、昭和62(1987)年3月25日に竣工しており、7枚目の写真のように、避雷針の設置も同日となっています。

 本校の校舎には、久万高原町の自然・気候に合わせた設備が取り入れられているといえます。

 本校の詳しい沿革史は、こちら。→沿革史

 

上高今昔25「人は石垣」

2022年8月16日 13時55分
上高今昔

 本校周辺には、学校の歴史を感じさせる石垣が多く残されています。

 まず、1枚目の写真は、星天寮の向かいにある、久万小学校の東境の石垣です。本校開校の昭和16(1941)年以前からあったと考えられます。2枚目の写真が、石垣の様子です。丸みのある自然に近い石を大小組み合わせています。「野面積み(のづらづみ)」と呼ばれる積み方に近いものです。この石垣が、本校周辺で最も古いものと考えられます。

 3枚目の写真は、図書館南側を流れる用水路です。かつての旧本館や旧正門があったあたりです。4枚目の写真は、水路の石垣の様子です。表面を荒く加工した石の隅を立てて積んでおり、「谷積み(たにづみ)」や「落積み(おとしづみ)」と呼ばれる積み方です。石材相互に力が働き、安定性があると言われています。開校当初からの石垣であり、この水路に続いてグラウンドの外周をぐるりと取り囲んでいます。

 5枚目の写真は、現在の正門の用水路です。6枚目の写真は、石垣の様子です。表面を丁寧に加工した長方形の石を並行に積んでおり、「布積み(ぬのづみ)」と呼ばれる積み方です。見栄えはよいですが、強度的には、「谷積み」に劣るようです。6,7枚目の写真は、昭和49(1974)年頃の写真であり、現本館と併せて現正門を整備した工事の様子です。この石垣が最も新しいものになります。

 戦国武将である武田信玄の言葉「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり。」にあるように、私たちも石垣のようなチームワークを作っていきたいものです。 ※本校の詳しい沿革史は、こちら →沿革史